魔術師と白猫
 
魔術師と白猫

朔 夏 



 真っ青に澄み渡った空を真っ白な雲がくるくると表情を変えながら流れていく。
 昼間の陽射しはまだ夏のように暑いが、気付けば太陽の位置は随分と低くなっていた。
 秋の夕暮れは薄情なほどに早いが、現世と隔絶されたような静謐な空間を取り囲む常緑樹の森は季節が巡っても茜色に染まることはない。
 幾度となく訪れているのに、足を踏み入れるたびに異世界に迷い込んだような心許なさを感じる。頼りない視線を彷徨わせ、空間の主を探すと、手入れの行き届いた芝生の中央で一脚の白い揺り椅子がわずかに揺れていた。
 ゆったりと背を預けて腰掛け、目を伏せて古ぼけた分厚い本のページを繰る姿は、子ども向けの童話に出てくる魔法使いのようだと思う。
 片手は傍らの白いテーブルの上で時折指先でリズムを刻む。思ったように指先が動いているかは別として、そういう時の彼は機嫌がよい。
「やあ、いらっしゃい」
 ぼんやりと様子を窺っていると、意外にも彼の方から声を掛けてきた。
 こう言っては失礼だが、彼は他人の気配に疎いのが常だったから、きっと気付いていないと思っていた。
 しかし、言葉だけはかけたものの、彼の瞳は本の文字を追っているのか伏せられたままで、一向にこちらを向く気はない。
「せっかくの読書を邪魔してすまないな」
 だから、少しだけ嫌味のエッセンスを加えてみた。
「すまないで済むなら軍隊も憲兵隊もいらない、というのが口癖の奴がいたな」
 音を立てて本を閉じながら倍以上の嫌味を返してくる癖に、こちらに向けられた表情は言葉とは裏腹に楽しそうだ。
「ようこそ、皇帝陛下」
 本をテーブルに置いて揺り椅子から立ち上がり、両手を広げて歓待のポーズを取る男は、黒髪と黒い瞳を持っている。その上、全身を真っ黒なマントで覆い、つばのついた黒い三角帽子まで被っていた。
「本日は魔術師ヤン・ウェンリーの館へ、どのようなご用件で?」
 度の入っていない銀縁の片眼鏡を指先でついと押し上げながら、魔術師が問い掛けてくる。
 その物腰は堂々としていて、普段のヤン・ウェンリーとは別人のようだ。
 こちらは正真正銘の皇帝であるラインハルトが片手で顎を触りながら首を傾げ、ヤンの全身を見回した。
「随分と気に入ったようだな、その扮装が」
「え?ああ……変だったかな?これはミッターマイヤー元帥の奥方がプレゼントしてくれた昨晩のハロウィンのパーティの衣装なんだ。これなら魔術師らしく見えるって、みんなに褒められたからね」
 それは知っている。
 皇帝である自分が顔を出しては皆が窮屈だろうから、と遠慮して参加しなかったパーティで、ヤンの仮装の評判がよかったことを朝から人づてに噂に聞き、少し悔しかったのだ。
 だから、普段から重臣であっても立入を許していない皇居の森の奥深くにあるヤンの邸を訪れた。
 まさか、ヤンが昨晩の仮装のままでいるとは思わなかったが。
「……魔術師ヤンは皇帝からの贈り物より、人妻からの贈り物がよいのか?」
 不機嫌を隠すふりもせず、ラインハルトはヤンを詰った。
 新皇帝ラインハルトは大貴族のように湯水の如く金を浪費したり、権力を誇示するための華美な装飾や名ばかりの美術品に大金を出したりすることはなかったが、ヤンが欲しいと思うものはなんでも与えようとした。
 とは言え、ヤンの物欲は薄く、嗜む酒類も給料で買えるレベルでしかなかったので、結局、ラインハルトに要求したのは帝国が誇る宮廷書庫の鍵ぐらいのものだ。
 しかし、その鍵はヤンにとって、どんなに高価な宝石や絵画も比べものにならないほど価値のある贈り物だった。
 だから受け取った時は、今よりも遥かに喜んでいたのだが、ラインハルトには通じていないようだ。
 というよりは、他の人間からの贈り物をヤンが喜んでいること自体が気に入らないのだろう。
 しかし、ヤンの顔を真っ直ぐに見ることもせず、視線を逸らして唇を尖らせる様は、とても一国の主とは思えない。
 ヤンは笑ってしまいそうになるのを堪えた。
 もしヤンが彼を子供だと笑ったら、年下であることをひどく気にしている彼の機嫌は当分直らないだろうから。
 だから、魔術師ヤンは二人の間の距離をふわりと縮め、ラインハルトの貌を覗き込むようにして囁く。
「知らないのかい?魔術師は贈り物をする側なんだよ」
 その言葉を受け止めかねたように、長い金色の睫毛に縁取られたアイスブルーの宝石が見開かれた。
 誰よりも強いのに、誰よりも傷つきやすい宝石。
 ヤンは唇の端を小さく上げて瞳を閉じると、スノウホワイトの柔らかな頬にその唇で触れた。
 離れて見上げたラインハルトの頬は、ゆっくりと桜色に染まっていく。
「それと……お伽噺の魔術師は黒猫を連れていることが多いようだけど」
 魔術師は人差し指を立てて自らの唇に当て、悪戯な表情でラインハルトを見つめる。
「私はトルマリンの瞳を持った毛並みのいい白猫が大好きだよ」
 そう告げた後のラインハルトの表情をヤンは見ることができなかった。
 なぜなら、魔術師は皇帝の力強い腕に捉えられ、身動きできなくなっていたからである。

おわり

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