置いてきた痛みたちへ

by.朔夏



 左大腿部の傷痕から流れ出す血は嘗ては眩しい白さを誇っていたスラックスをどす黒く染め上げていた。
 最初はじくじくと熱いほどの痛みを訴えていたその部分がだんだんと痺れに変わり、遂には感覚すら無くなっていくのを、同様に酸素の循環が乏しくなってきた脳裏で感じてヤンは浅い息を繰り返していた。
 巡航艦レダ
Uに帝国軍を装って乗り付け、テロ活動を行った地球教徒達が何処へ行ったのか、そして護衛のために乗艦していた部下達がどうなったのか。
 最早、ヤンには確かめる術も時間も残されていないようだった。
 ヤンの脳裏には愛すべき人々の姿が次々と浮かんでは消えていく。
「ごめん…フレデリカ…ごめんユリアン…ごめん…みんな…」
 どうか許して欲しい。
 君たちを置いていく私を…。
「…やっぱり、君との約束は果たせなかった…」
 許して欲しい。
 最後の瞬間は君たちではない人のことしか考えられない私を…。


 もう、思うように動かない体で、霞む視界の向こうへ手を伸ばす。
 はじめての恋だったんだ。
 決して共には在れないと解っていながら、蜘蛛の糸に絡め取られる蝶のように君に捕らえられてしまった。
 けれど捕らえられたいと願ったのも自分自身で。
 刹那の夢を見るように君との恋に溺れてしまった。
 その冷たい瞳に、その冷たい指に、自分のすべてを…頭の中までも掻きまわされたいと望んだ。
 君になら殺されてもいいと思ったんだ。
 そのぐらい私はすべてに疲れ切っていて、もう誰もいないところへ行ってしまいたかった。
 けれど、…君はそうしてはくれなかった。
「俺はカイザーの旗の下で全力で卿を倒し、すべてのしがらみから卿を解き放ってやろう。その時こそ、卿のすべては俺のものだ。」
 だから決してそれまでは死ぬな、と。
 昼間の海と夜の海のような異なる光彩の瞳に見つめられて、熱い吐息が漏れる。
 薄い唇に指を喰まれて、ヤンの躰に震えが走る。
 どうしようもなくこの男に捕らえられてしまいたいのだと自分のすべてが訴えている。
「       」
 名を呼んだ唇は、彼の吐息に溶かされて声にならない。
 冷たいと思っていた指はヤンの躰に熱ばかりを植え付け、ヤンの望みのままに思考する暇を与えなかった。
 灼け付くような痛みに貫かれてヤンの眦をすべり落ちた雫を拭った唇はやはり冷たかったけれども。
 その金銀妖瞳は灼熱を孕んでヤンを見つめている。
 そのことに陶然とした快感を覚えてヤンは震えた。
 震える指先を恋しい男の髪に伸ばす。さらさらとしたダークブラウンの前髪を掻き上げて、その瞳がより自分を見るように。
「約束するよ…君にもう一度逢うまで私は死なない…」
 私はこの世で一番の罪人かも知れないけれど。
 それでも君だけは諦められないんだ…。
「ああ、待っていろ…」
 その声がいつまでも耳に残っている。
 

 伸ばした手が何も掴むことの出来ないまま、冷たい床に落ちる。
 もう幻すら見えやしない。
 君は今どこにいるのだろう。
 もう一度、もう一度だけ君に名を呼ばれたかったよ。
『…ウェンリー…』
 そしてもう一度、君の名を呼びたかった。
「…オ…スカ…」
 呼吸すらままならない身体で呼んだ彼の人の名は、誰もいない空間に吸い込まれるように消えていった。
 冷たく暗い闇が急速に意識を覆って行くのを感じながら、ヤンはその黒曜石の瞳を瞼で閉ざした。





「ウェンリー!」
 ああ、君の声がこんなに鮮明に聞こえるなんて、ここは天国なのかな。神様ありがとうございます。こんなに罪深い自分の望みを叶えてくださって…今まで神様なんて信じていなかったけど、これからはちゃんと信じますから。
「この馬鹿!目を醒ませと言っているだろう!」
「ロイエンタール元帥、そのおっしゃりようはいくらなんでも…」
 そうだよ。ひどいじゃないか。私だって好きで死んだわけじゃないのに…。あ、オスカーを止めているその声はシェーンコップ?
「馬鹿だから馬鹿だと言っているんだ!この万年居眠り男は死んだふりをしてまで寝たいに違いないんだ!」
 そりゃないよ、オスカー。私だって出来れば死にたくはなかったんだから…って、あれ?
 なんか死んだはずなのに体中が痛くて重いなあ…。
 それになんだか眩しい気がする。でも天国は眩しくてもしょうがないよね。お花畑は見えないのかな。どうせなら見てみたいよね。
「…あ、目を醒ましたみたいですよ。」
 お花畑…じゃない。
 なんか人がいっぱいいる。もしかして…。
「…あれ…みんな死んじゃったのかい?」  
 思ったほどにハッキリとは発音できなかったけど、なんとか言葉になった気がした。
「…誰がだ、この馬鹿!」   
「ロイエンタール元帥閣下、あまり我が上官を馬鹿呼ばわりしないでいただきたいものですな。」
「煩いぞ、貴官も防御指揮官なら最初からちゃんとこいつを護っていればよかったんだ!」
 いや、シェーンコップは『要塞』防御指揮官だから、それは彼のせいじゃないんだけど…っていうか、あれ?
「…もしかして生きてる…のかな…?」
 まだ視界も意識もはっきりしていない状態だったが、どうもここは天国ではなさそうだということが、ようやくヤンにも理解できそうな気がしてきた。
「閣下に死なれては私たちは路頭に迷いますので、そう簡単に死なないでください。」
 いつもどおり皮肉気な口調ではあったが、シェーンコップらしからぬ穏やかな微笑と真摯な瞳がヤンを見つめている。
 彼らを置いてイゼルローンを出たのはいつのことだったのだろう。
 かなり前のような気もするし、つい先程のような気もする。 
「さあ、ヤン提督のお体に触りますので皆さん退室してください。ああ、カイザーへのご報告をお願いしますよ。」
 白衣を着た医師と思われる老人が帝国語で皆を追い出しにかかったのを聞いて、ヤンはここがイゼルローンでもレダ
Uでもないことに気付いた。不思議そうな顔のヤンに、老医師がここがカイザー・ラインハルトの旗艦ブリュンヒルトであることを告げる。
 そこへ、素直に退室したかのように見えたロイエンタールが再び戻ってきたかと思うと、ヤンの横たわるベッドへと歩み寄る。
 なんだか廊下でシェーンコップが騒いでいる気がするのは死にかけた脳が聞かせる幻聴だろうか。
「…やあ、久しぶりだね。」
 死にかけた割に暢気な挨拶だとは自分でも思うが、他に何を言ったらよいのか思いつかない。
「…この馬鹿者が。」
「さっきから何度も言われてる気がするけど、それはまあ真実だから反論はしないよ。でも私にも不可抗力というものがあってどうにもならなかったんだから仕方ないじゃない…っ!」
 反論の途中で声は飲み込まれてしまって続かなかった。
 確かさっきまで医師がいたと思うのだが、と思っても弱った体ではロイエンタールを押し返すことも出来ない。
「…ウェンリー…」
 記憶にあるよりも激しい抱擁と熱い口吻にヤンの意識は再び混沌の中へと沈んでいく。だがそれは先程までいたような冷たく暗い闇の中ではなく、どこか暖かいような柔らかな安寧であった。
「…忘れるな…お前のすべてはもう俺のものだから…勝手に死ぬことは許さない…」
 ロイエンタールの腕に包まれながら意識を手放す瞬間、ヤンはその顔に微笑みを浮かべ、恋人の名を呼んだ。
 

 



 FIN.

 

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