誕生夜

  by.朔夏      


 

 しんと静まりかえった士官学校の寮の微かに軋むドアを音を立てないようにそっと開けて、ヤンは廊下へとすべり出た。
 数ヶ月前に出会ったばかりの気のいい同室の友人が夢の中なのを確認してドアを閉めると、ひんやりとした夜の空気が背中を包んだ。
 夜着の上には薄手のカーディガンを羽織ってはいたけれど、思ったよりずっと冷え込んでいる空気に晩秋という言葉を思い浮かべる。
 ほんの少し前までは陽射しが強い昼間はまだ夏のようだと言い合っていたのに、いつの間にか感じるのは近付いてくる冬の気配。
 ヤンの手には、小さな白い箱があった。
 落とさないように大事そうに抱えて、足音を立てないように、けれども少し急ぎ足で廊下を進む。
 部屋を出る前に見た時計は、11時50分を指していた。
 消灯は11時なので、部屋を出ているのを見回りに見付かると罰則を受けなければいけなくなる。
 いつものヤンは、こんな時間に外を出歩いたりはしない。
 とっくに夢の中か、あるいはどうしても読みたい本があればベッドでデスクライトの灯りを頼りに見回りの足音に耳を傾けながら読書に夢中になることもあるけれど。
 昼間の間にそっと細工しておいた屋上へ続くドアの鍵を開けると、思ったよりも大きな金属音が響いて、どきりと心臓が跳ねる。
 そっと周囲を見回して誰も気付いていないことに安堵の息を漏らすと、ヤンは重たい鉄の扉をゆっくりと押し開けた。
 一段と冷たい夜気が流れ込んできてヤンはぶるりと震え身を竦ませる。
 こんなに寒いんならコートを羽織ってくるべきだったと眉を顰めて後悔したけれど、いまさら部屋に戻るわけにも行かない。第一、無精な自分はコートなんて初夏に入れ替えた衣類の箱からまだ出してもいないのだから。
 取っ手を握り締めて音に気を付けながらそっとドアを閉め背後を振り返ると、ヤンは満天の星の瞬きに息を飲んで夜空を見上げた。
 この星を君も見ているのだろうか。
 ひときわ強く吹き抜けた風に身を震わせてヤンはここに来た目的を思い出し、屋上に設けられた木製のベンチの上に手に抱えた箱をそっと下ろす。
 誰にも内緒でジェシカ・エドワーズに頼んで買ってきてもらったのだ。
 少しは話をするけれどもまだそんなに親しいわけではない自分の頼みをジェシカは理由も聞かずに引き受けてくれた。
 優しさと思いやりに満ちた少女をまるで母のようだと言ったら彼女は困った顔で笑うだろうか。
 箱の蓋を両手で持ち上げると真っ白なクリームでコーティングされた直径10cmほどのデコレーションケーキが顔を覗かせた。
 特に指定したわけでもないがクリームで飾り付けられたケーキの縁に添ってカットされたイチゴが綺麗に並べられている。
 ヤンはポケットから色とりどりの細長い蝋燭を取り出すと、ケーキの上の狭い平面に立て始めた。
 不器用なのは自他共に認めてはいるがこればかりは失敗できないので、慎重に手を動かす。寒さにかじかむ指を叱咤しながら、ぴったり数えて持ってきた蝋燭の最後の1本を無事に立て終えて、ヤンは詰めていた息を吐いた。
 まるでハリネズミみたいだと思って苦笑する。
 これだけ密着しているとマッチで火を付けるのも一苦労だった。
 倒れそうになる蝋燭と格闘しながら、なんとかすべての蝋燭に火を灯し終えると、ヤンは再び夜空を見上げた。
 真夜中の零時を通り過ぎた今日は10月26日。
 約束を守れたのなら君の目の前で言えるはずだったんだけど。
 今の僕たちは、なんて遠いんだろうね。
「…誕生日おめでとう、オスカー」
 16歳の君に16歳の僕から。
 君は誕生日なんて嬉しくもなんともないって言うかも知れないけれど。
 今日は君と僕が出逢えた奇跡のはじまりの日だから。
「もう、これからは君に会うまで泣いたりしないから…」 
 だから今夜だけは泣いてしまう弱い自分を許してほしい。
 きっと吹き消された蝋燭たちの短い命が哀しくて涙が零れるのだ。
 ヤンはジェシカの買ってきてくれた甘いけれども何故か塩辛いケーキを残さず食べ終えると、持ってきた箱にすべての残骸を納めた。
 小箱を胸に抱えて屋内へ続くドアに歩み寄り、もう一度振り返って星空を見上げる。
 遠い星のどこかに確かに存在する愛しい命を想いながら、その夜空にも似た色の瞳を伏せると、ヤンは振り切るように踵を返し冷たい鉄の扉の向こうへと身を滑り込ませた。
 




  

FIN.

 

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