宵闇に龍は誘う

  前奏曲

 by 朔夏


 帝国歴483年、オスカー・フォン・ロイエンタールは数少ない友人であるウォルフガング・ミッターマイヤーの結婚式に参列した。
 ミッターマイヤーの花嫁となるエヴァンゼリンはクリーム色の髪とすみれ色の瞳のおとなしそうな女だった。
 ミッターマイヤーのような男には、どんな女でも選り取り見取りだろうに、好んで一人の女に縛られるなんて気が知れない。
 だがミッターマイヤーは言う。
「はじめて逢った時、エヴァンゼリンが天使のように見えたんだ。」
 それはそれは幸せそうに。
 可哀想にミッターマイヤー。お前は知らないんだろう。
「女という生き物は男を裏切るために生を享けたんだ。」
 そう、自ら産んだ我が子を自分の罪を隠すためだけに傷つけようとした俺の母のように。
「ロイエンタール、卿はまだ知らないだけだ。卿にもきっといつか分かる。本当に愛する人が現れた時に。」
 俺の目をじっと見ながら断言するミッターマイヤーを同じように真っ直ぐ見返すことが俺にはできない。
 お前はいい。
 愛する者に同じように愛された。
 求めて伸ばした手を同じように握り返された。
「愛されて育った人間は愛することを知っている。」
 誰が言ったのだろう。
 では愛されなかった人間はどうなるのだ。
 求めた手を振り払われた子供は。
『…君を愛してるよ、オスカー…』
 一度は確かに手に入れたはずの愛する者に捨てられた人間は。 
 初めて信じた者に裏切られた惨めな男は。
 一体どうすればよいと言うのだろう。



「ロイエンタール、今夜はエヴァンゼリンが手料理をご馳走したいと言ってるんだがウチに来ないか?」
 帝国歴487年10月、アムリッツア会戦を終え、皇帝の崩御したオーディンに帰還したロイエンタールはミッターマイヤーと共に大将に昇進した。
 新年を迎え、エルウィン・ヨーゼフ二世新皇帝の即位、ローエングラム侯は宇宙艦隊司令長官職の拝命と着実に歩を固め、ロイエンタール自身も間もなく始まるであろう門閥貴族たちとの戦いにそなえて、ミッターマイヤーやキルヒアイスと共に作戦立案に従事していた。 
 忙しい日々ではあったが、着実に未来へと進んでいる充実感があった。
「いや…悪いが今夜は先約があってな。」
 残念だがまた今度、と言うロイエンタールにミッターマイヤーは溜め息をつく。
「先約があるなら仕方ないが…、こう言っては何だが、卿は最近ますます付き合いが悪くなったな。」
「そう言うわけではないが…昇進したらますます引く手数多になってしまったようで、こちらとしても対応に困っている。」
 皮肉気な笑みを浮かべて嘯くロイエンタールに、ミッターマイヤーは呆れ顔になる。
「卿は…女性にもてるのは結構だが、その中の誰か一人を選ぶつもりはないのか?」
 エヴァンゼリンと結婚して以来、結婚や家庭の素晴らしさについて、事あるごとにロイエンタールに説いて聞かせようとするミッターマイヤーだったが、それがまったく功を奏していないことに脱力感を覚えた。
「…何度も言っているが、俺は女というものを信じるつもりはない。」
 それに、誰か一人ならもうとうに選んでいる。
 ただ、それを失っただけだ。
 自嘲気味に笑ったロイエンタールは片手を上げて、何か言いたそうにしているミッターマイヤーに別れの挨拶をした。
 ひとり歩き出したロイエンタールの背をミッターマイヤーは見えなくなるまで見送った。
「ロイエンタール…、卿は…」
 誰よりもロイエンタールに近いはずのミッターマイヤーにも、ロイエンタールの凍てついた心を溶かすことはできない。
 それが悲しくもあったが、いつかきっと彼を心から愛し、愛される人が現れることを信じて、ミッターマイヤーは愛する妻の待つ我が家へ帰るためにロイエンタールとは反対の方向へと歩き出した。



「今夜は上の空ね、オスカー。」
 今月に入って何人目の女だったか数えるのも面倒になっていたが、ロイエンタールの選ぶ女はいつも上等の部類だった。
 ロイエンタールの美貌に引けを取るようでは立候補すら出来ないと思われているらしく、どの女も自分の美しさやセールスポイントをよく弁えている。
 相手が箱入り娘だろうと人妻だろうと、ロイエンタールは構わなかった。
 自ら寄ってくる蝶達は火に焼かれることを望んでいるのだから。
「…なんだ、まだ足りないのか?」
 ロイエンタールの厚い胸にしなだれかかって上目遣いで見上げてくる女の黒い瞳は情欲に濡れている。
 同じ黒い瞳なのに、こんなにも違う。
「ああ…オスカー…」
 粘り気を帯びた声がロイエンタールの動きに応えるように高く上がる。
 あの包み込むような優しさでその名を呼んだ声とは似ても似つかない。
 何もかも違うのに、こんな女達にお前の影を追い求める俺を、お前は何処かで嘲笑っているのか。
 
 こんなにもお前に捕らわれてしまった愚かな男を。
 
『君が好きだよ』

 もう、お前の声しか聞こえない。  
 
『愛してるよ、オスカー…』

 もし、もしも次にお前に逢ったなら。
 その時、お前が俺を拒否したなら。
 俺は、お前を…


「あっ…ああっ、オスカーっ…」
 女の感極まった嬌声に、ロイエンタールは閉じていた双眸を見開いた。
 醜い肉の塊に吐き気がする。
 そして醜い自分自身にも。
 行為の後、気絶するように眠ってしまった女を置いて、ロイエンタールは素早く身支度を整え、屋敷への帰路に就いた。
 凍てついた冬の気配がロイエンタールの身体から体温を奪っていく。
 ふと足を止めて、ロイエンタールは夜空を見上げた。
「シャオ…お前は今、何処にいる…?」
 もう生きてこの宇宙に存在していないのではないかと何度も考えた。
 そうならば彼は自分を裏切ったわけではないと納得できる。
 けれど、何故かは分からないがロイエンタールは彼が生きていると確信していた。
「ローエングラム候が宇宙を手に入れた暁には、お前がフェザーンにいようと自由惑星同盟にいようと、必ず探し出してみせる…」
 それまでは何があろうとも戦い続け、生き残ってみせる。
 寒空の下、ロイエンタールは両の手を握りしめ、真っ直ぐに前を向いて歩き始めた。

 
 運命の歯車が軋みながら動き始めていることを。
 今は、まだ誰も知らない。



                                             「宵闇に龍は誘う」本編へつづく

 

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