All Right All Night
−1−
by.朔夏
「うう〜ん……」
いつになく寝苦しい夜だった。官舎の空調機能が故障でもしているのか、随分と空気が乾燥しているようで喉が渇く。ヤンは幾度も寝返りを打つ内にすっかり目が覚めてしまい、ベッドの上で起き上がった。
「……ユリアンに怒られそうだけど、寝酒でもないと眠れそうにないな」
ヤンはユリアンの保護者のつもりだが、ユリアン本人も周囲の連中もユリアンの方がヤンの保護者だと思っているフシがある。その被保護者兼保護者は軍の命令によってフェザーン駐在弁務官づき武官としてイゼルローンを離れていた。
イゼルローンを離れることを本人は嫌がっていたが、説得したのはヤン自身だ。
ユリアンが立ってから今日で八日目。
何事もなく無事にやっているだろうか、危険なことはないだろうか、と考えれば心配は尽きることがなくてヤンは常に落ち着かない気持ちを抱えていた。
出発の際にいつまでもヤンの日常生活について言及していたユリアンも同じようにフェザーンでヤンのことを心配しているのだろうと思うと、血の繋がりなどなくとも『家族』になれるのだと笑みが零れる。
「さて、すっかり目が覚めてしまったな……」
明日も勤務は通常通りだ。
やはりここはアルコールの魔力で眠りにつくしかない、とヤンはベッドから足を降ろした。
「……っえ?」
不思議なことにいつまで経っても足の裏には何も触れてこない。
いくら寝惚けていても足を降ろした先にあるものは床しか有り得ないのに。
「ええっ……!?」
だが、そうヤンが考えている間にも本来あるべきものがない空間にヤンは足から吸い込まれるように落ちる。自分の降り方がおかしくて転んだのだとしたら、次に来るのは床に激突する衝撃だ。
ヤンは覚悟を決めて強く目を瞑った。
「………!」
しかし、予想した衝撃は来なかった。
それどころか身体がふわりと宙に浮くような無重力状態に似た体感を感じて、ヤンは恐る恐る薄目を開けてみる。
「え……」
ヤンは驚きに目を瞠って周囲を見回した。
「ここは一体……?」
周囲は真っ暗な闇だった。だが、闇の中に立っているわけではない。なぜなら裸足の足の裏には何かに触れている感覚がない。それに先程感じた浮遊感は続いていて、ゆっくりと落ちているような気がした。
「私は夢を見ているのかな?」
独り言だと分かっていても何か言わずにはいられない。
周囲は暗闇なのに、自分の手や足を見回せばそれはちゃんと見える。
「一体なんなんだ!?」
(もしかして、知らない間に死んでしまったとか……?)
「……そこまで間抜けだったのか、私は……」
ヤンは呆然と自分の掌を見つめた。
いくらなんでも死ぬ時ぐらい『走馬燈のように』とか『お花畑が見える』とか何かあってもいいんじゃないか。
(まあ、艦が爆発でもすればそんなものか……)
「そうか、私は死んだのか……ユリアンに何て言ったらいいのかな……」
自らの立てた仮説に納得し、腕を組んで真剣に悩み始めたヤンだったが、そもそも死んでしまったらユリアンと会話出来ないことは忘れているようだ。
「うわ……っ」
突然、それまで緩やかに下降しているようだった身体が何かに引っ張られるような感覚を覚えた。
痛いほどの強い力で全身を引っ張られるような落下感だった。
「それにしても下に落ちるってことは、やっぱり行き先は地獄かな?」
そんな状態でもヤンはやはりヤンだった。
(まあ仕方ない、死んだら何処に行くのかやっと知ることができるってわけだ)
「ああ、でもみんなには怒られるだろうなあ……」
それも仕方ないかとヤンは苦笑を零し、目を凝らしても暗闇しかない世界を自分の意志で遮断した。
「うん?」
ヤンが目を閉じた瞬間、それまでヤンを引きずり降ろそうとしていた強大な力が糸が切れたかのように消滅した。そのために反動が起きたのか、ふわりと身体が浮き上がったように感じる。
それまで見えないなりにも自分が直立状態で落下していると認識していたが、今の浮遊で仰向けに横たわるような体勢になった気がした。
「今度は何なんだ?」
ヤンは状況の変化を感じ、閉じた目を再び開けた。
「え……」
(宇宙?いや……これは夜空だ)
ヤンのいる場所は先程までの真っ暗な闇の中ではなかった。
目に飛び込んできたのは満天の星々の輝き。
人工の光の届かない場所でしか見ることが叶わない本当の星空だった。
「ここが、地獄?」
ヤンが小さく呟いた途端、浮遊感は再び落下感に変化した。驚いたヤンは自然と目を瞑る。
「わ……いい加減に……っ」
しかし今度の落下はそう長く続かなかった。
「……っ、た!」
背中から硬いものにぶつかった衝撃を感じてヤンは息を詰めた。
数秒の間、呼吸を止めて痛みを我慢する。
ヤンは目を閉じたまま、姿勢を変えずに全身に注意を巡らせて痛みの強度と身体の状態を確認してみた。
(……思ったほど痛くないな)
身体を鍛える努力を怠ってきたヤンがそう思うぐらいなのだから、実際に大した衝撃ではなかったようだ。
「それとも死んでるから痛くないのか?」
ヤンは恐る恐る目を開けてみた。
視界に広がるのはやはり先程と同じ宝石箱のような星空で。
「……ということは、やっぱりここが地獄?」
先程と異なるのはヤンの横たわる場所だった。
もうヤンは宙に浮いてはいない。
「う〜ん、この手触りは芝生だよなあ」
そう言いながら視線を横に向けると芝生らしき植物が生えている様子が見えた。
「……地獄に芝生」
(これは昔の格言にあったかな?いや、それはホトケだ)
自らの思考にツッコミを入れつつ、ヤンはさらに周囲の様子を見回した。
そうして、ヤンはここがどんな場所であるかにようやく気付く。
黒い瞳を大きく瞠り、地面に手を突いて勢いよく身体を起こした。
「ここは……」
ヤンの蹲る位置からわずか五歩の距離にある光沢のある石に彫られた文字をヤンの眼差しがゆっくりと追った。
「我が友、ジークフリード・キルヒアイス、ここに眠る……」
ヤンは唖然とした表情のまま、微かに震える声でその文字を読み上げた。
「ここが地獄じゃないとしたら私は夢を見ているに違いない……でなけりゃ、こんなことが起こるはずがない!」
ヤンは地面の上で芝生と下土を握りしめて汚れた指をゆっくりと自分の頬に持っていった。
「絶対に!痛くないはずだ!」
気合いを入れるように喚きながらヤンは自分の頬を思いっきり抓った。
「!!!」
三つ数えてヤンは崩れるように地面に伏せた。
「…………………………痛い……」
(ということは現実なのか!?)
「現実だとしたら……ここは銀河帝国の首都で、ここはキルヒアイス提督のお墓の前で……ということは、私は敵地のど真ん中に落ちて来たってことで……」
ヤンは混乱する頭を落ち着かせようと地面に伏せったままブツブツと呟きながら状況を整理していた。当然、自分のことで手一杯なヤンは誰かが近付いてこようと気付くはずもない。
星が瞬く時間に墓の前に座り込んでブツブツと呟く人間など不審人物以外の何者でもないが、ヤン自身はそんなことに構っていられるような状況ではないのだ。
だが、ヤンが構わなくても他の人間は構わないわけにはいかない。
「おい、お前!そこで何をしている!?」
突然聞こえた詰問口調の厳しい声音にヤンは驚いて顔を上げた。
だが、ヤンは驚きのあまり目を見開いたまま何も言うことが出来ない。
「なんだ、お前は」
ヤンが驚いたのは何も突然に他人が現れたからでも、その人物が不機嫌そうにこちらを睨み付けているからでもなかった。
その人物があまりにもヤンにとって大きな意味を持つ人物であったからだ。
ヤンが目も口もぽかんと開けたまま見上げていると、その人物は苛立ったように鋭い視線をヤンに向けてきた。
「聞こえないのか?それとも口がきけぬのか……いや、だとしても怪しすぎる。こんな時間にその墓の前に佇むとは、貴様は何者だ?まさかアンスバッハの関係者ではあるまいな!」
氷のように冷たいのに、炎のように熱い瞳だとヤンは感じた。
(これが本物の……)
「俺の顔を知らぬわけではあるまい」
詰問を重ねるごとに激しく燃え上がる瞳にヤンは気圧されたように頷いた。
知らぬはずもない。初めて戦火を交えた時から、自由惑星同盟の最大の敵となるであろうことをヤン自身が予見していた人物。
(本物のローエングラム公ラインハルト!)
「その墓は『我が友』の墓。俺はラインハルト・フォン・ローエングラムの名にかけて、その墓を汚す者は許さぬ」
ジークフリード・キルヒアイスの墓を優雅に指し示し、不敵な笑みを見せるラインハルトの蒼氷色の瞳を、ヤンは為す術もなくただ呆然と見上げていた。
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