あの時、差し出された貴方の手を拒むことしか私には許されていなくて。
 貴方の蒼氷色の瞳も、私の返事などとうに理解っていると言っていた。
 もしも私が生まれた場所が此処でなかったなら。
 あるいは貴方の生まれた場所が此処であったなら。
 
 もう一度、貴方はその手を私に差し出してくれるのでしょうか?
 



 
夢のあとさき −1−

by.朔夏




「夢を見た…」
 士官学校の戦史研究科で講師として勤務するヤンには、準備室という名の狭い個室が与えられていた。助教授になれば2倍、教授になれば3倍はある部屋が与えられるが、もともとスペースがあればあるほど片付けられずに物を増やしてしまうヤンであったので、このぐらいで丁度良いだろうと事務長のキャゼルヌは常々言っている。
 そのヤンの準備室には訪問者があった。
 既に今日の授業は終わり、生徒は全員寮に戻っているはずの時間だったが、明日の授業の準備をしていたヤンを生徒のひとりが唐突な言葉と共に、突然尋ねてきたのだった。
 彼の台詞にヤンは返答できないまま、手に持っていた資料を机の上へ移動させる。
 
「…夢がどうかしたのかい?ミューゼル君」
 問い質すでもなく、突き離すでもなく、ヤンは柔らかな表情で問いかける。
「他に誰もいないんだから、名前で呼んでくれたっていいだろう?」
 ヤンの問いには答えないままそう言って、少年はヤンの机へ歩み寄り、革張りとまではいかないもののそれなりに座り心地の良い回転椅子に腰掛けているヤンの背後へと回り込んだ。 
「あなたがいなくなる夢を見たんだ…」
 少年の白く長い指がヤンの肩先を撫で、胸に回される。ヤンの胸の前で両の手指を組んで、少年はヤンの肩口に顔を埋めた。
「…ラインハルト…?」
 少年の常ならぬ様子に、ヤンはそっと少年の手に己の掌を重ねる。
 現在26歳のヤンより9つ年下の少年は、士官学校始まって以来の天才という評判で、戦略戦術のような頭脳プレーは勿論のこと、射撃や白兵戦などの体力勝負においても成績優秀と聞いていた。
 運動音痴が服を着て歩いているなどと親友や後輩に笑われ、落第寸前でなんとか卒業したヤンとは天と地の差がある。なんとか希望どおりに戦史研究科の教員職にありつけたのは運が良かったとしか言いようがないが、それなりにキャゼルヌの口添えもあったのだろうと思う。
 その上、少年はその容姿に於いても傑出しており、性別にかかわらず誰もが見惚れ、感嘆する程であった。
 豪奢な金髪は太陽のように輝き、蒼氷色の瞳は真っ直ぐに前を見つめて逸らさない。ビスクドールのように繊細で魅力的な美しさを持っており、それでいて決して人形にはない頭脳と能力を兼ね備えている。
 誰もが羨むような存在でありながら、誰もが疑問に思うことがひとつだけあった。
『なぜラインハルト・フォン・ミューゼルはヤン・ウェンリーに懐いているのか?』
 この質問は主にヤンの方へとぶつけられていたが、ヤン自身にその理由が分かるはずなどなかった。もともとラインハルトと知り合いだったわけでもない。ただ、今年度はじめて彼のクラスの授業担当になったというだけで、それまでは同じ校内にいても顔を合わせたことはなく、評判の生徒として名前を聞いているぐらいだった。
 けれど授業に赴き、ラインハルトの姿を見た瞬間の驚きをヤンは今でも憶えている。
 その容姿にも驚いたが、だが彼に初めて逢うはずの自分は確かにその瞬間、思ったのだ。
『ああ、やっと逢えた』…と。
 柔らかな微笑みを浮かべたヤンをラインハルトはじっと見ていた。
 ラインハルトは授業の際には特に変わった様子は見せなかったが、午前中の授業が終わって昼休みになると、赤毛の友人を連れて準備室へとやって来た。赤毛の少年も整った優しげな顔立ちをしており、ジークフリード・キルヒアイスと名乗った。ラインハルトとはクラスが違うらしく、ヤンの担当からは外れていたが、ラインハルトに付き合ってここへ来たらしい。
「ラインハルト様とは幼なじみなんです」
 幼なじみを敬称付きで呼ぶというのはヤンには理解し難かったが、二人とも銀河帝国からの亡命者であるらしいので、それなりに事情があるのだろうと察して特に何も言わなかった。
「ヤン先生、これからもこちらにお邪魔してよろしいですか?」
 何が気に入ったのかは分からないが、ヤンとて生徒に慕われて悪い気はしない。二つ返事で了承したのだが、ラインハルトはもうひとつヤンに要求してきた。
 曰く『名字でなくファーストネームで呼んでくれ』と。
 彼が何故そんなことを言うのかも不思議ではあったが、ヤンも教師である以上、たとえ彼が類い希なる優秀な人物であっても生徒として特別扱いすることは好ましくないと考えた。
 彼の自尊心を傷付けることなくヤンの言い分を説明することは難しいと思ったが、ヤンの困った顔を見たキルヒアイスが気を利かせて助け船を出してくれた。
「ラインハルト様、突然そんなことを言われてもヤン先生が困られますよ。今日はまだ初対面なのですし、もう少しお互いのことを知ってからでよいのではありませんか?」
 穏やかな物言いにいつものことなのかラインハルトは渋々といった表情ながら納得を見せた。
 内心、まるで『お見合い』の仲人とやらの台詞みたいだとは思ったがまさか口に出すわけにもいかず、ひとまず二人と握手を交わして今後の準備室訪問の許可を与えたのだった。

 

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