士官学校事務長のキャゼルヌは、歴代の事務長の中で最も若くしてその職に就任した。その地位を栄達と受け止めるか、閑職と受け止めるかは人によって差違があるが、キャゼルヌ自身には元々出世欲のようなものもなく、妻と二人の娘の傍にあって不自由なく生活していける上に、前線で死線を彷徨う心配もない身分に満足していた。
 仕事の内容も予算や施設の管理、カリキュラムの検討や教員の人事管理など、折衝やデスクワークが苦にならない(というより得意に属する)人種のキャゼルヌには適性があったと言える。
 ヤン・ウェンリーとは士官学校で直接の先輩後輩だったわけではないが、キャゼルヌが卒業後も恩師を訪ねて士官学校を再々訪れる間に、一風変わった生徒として恩師に紹介され、親しく話すようになったのだった。
 一見、地味で目立たない印象のヤン・ウェンリーだったが、その見識や発言にはキャゼルヌも驚かされることが多く、恩師が彼を気に入っている理由も頷けるものがあった。
 ヤンが士官学校卒業後の進路を決定する際に、軍務ではなく士官学校の教員を志望していると恩師から聞いたキャゼルヌは、職権濫用と言われない程度に校長に対して推薦しておいたのだが、恩師の口添えやヤン自身が提出した論文が好評を博したこともあって、案外あっさりと内定したのだった。
 



 
夢のあとさき −2−

by.朔夏




 士官学校を20歳で卒業したヤンは、ひとまず助手として恩師の研究室に入り、4年間の研修期間を経て24歳で講師となった。それまでは直接的に生徒を指導する立場ではなかったが、講師になると授業を持つことが出来るようになる。ヤンは、どちらかというと研究家肌で教鞭を執るのは得意ではなかったが、生徒には不思議と人気があった。
 士官学校の教員は年配の白髪の教授か、若ければ鼻息が荒く声と態度の大きい実技指導の講師ばかりであったので、とても軍人向きとは言えない線の細さのヤンは珍しい存在と言えた。
 授業の際も知識を詰め込むような教え方はせず、生徒の興味や関心を無理に引こうとするのでもなく、自分が楽しいと思うことを嬉しそうに話しているようにしか見えないのだが、それが何故かすんなり頭に入ってしまうので、授業のあるクラスの生徒からは魔術師のように思われているらしい。
 ヤン自身は気付いていないようだが、ヤンに授業を受け持って欲しいと希望調査票を提出する生徒は数多くいた。しかしヤンの身体はひとつしかなく、それでなくても仕事熱心とは言い難いヤンにこれ以上の授業を押しつけることは不可能であったので、キャゼルヌも時間割の編成には苦労していたのだった。
 その数多くの生徒の中で今年度、幸運にもヤンの授業を受けることができたクラスにラインハルトは在籍していた。
「キルヒアイス!今度から俺のクラスの戦史研究科目の担当がヤン先生になるらしいぞ!」
 新学期の開始に伴うレクチャーを終了し、昼食を取るための待ち合わせ場所に駆け込んできたラインハルトは、赤毛の幼なじみに飛びつかんばかりの勢いで訴えた。
 相当の速さで走ってきたのか、運動能力は人並以上のラインハルトが息を切らせている。白い陶器のような頬にうっすらと血の色が昇って、ラインハルトの美貌を一層際だたせていた。
 目を丸くしながらラインハルトの身体を受け止めたキルヒアイスは、ラインハルトの興奮の理由に納得する。以前からラインハルトはヤンの授業を受けることを強く希望していたのだった。
「よかったですねラインハルト様。私はクラスが違っていて残念ですが、ヤン先生の授業のお話を聞かせてくださいね」
 微笑みながら穏やかに告げるキルヒアイスにラインハルトはやや落ち着きを取り戻した。
「お前もヤン先生の授業を希望していたのだったな…すまない、自分だけ希望が叶って喜んでしまって…」
 しゅんとして謝るラインハルトにキルヒアイスは柔らかな微笑みで応えた。
「お気になさらないでください。それよりラインハルト様だけでも希望が叶ってよかったです。それに、ラインハルト様がヤン先生と親しくなられたら、私も紹介していただければ嬉しいです」
 赤毛の幼なじみの提案に、ラインハルトの表情は明るさを取り戻した。
「そうか…そうだな、キルヒアイス!今度、一緒にヤン先生に会いに行こう!」
 くるくると表情を変え一喜一憂するラインハルトの素直さに苦笑しながら快諾の返事をして、キルヒアイスはラインハルトを食堂へと誘ったのだった。


 ラインハルトとキルヒアイスがヤンの存在を知ったのは、士官学校に入学してすぐ、ヤンが助教授に就任したばかりの頃だった。
 まだコース選択調査票を提出する前で、ひと通りすべてのコースを経験してから希望を出して決定するシステムになっていたため、二人は第一希望の戦略研究科の戦略戦術シミュレーションシステムの体験に参加していた。あくまで体験であるため、生徒は2人1組のチームを組んで、シミュレーション機器のソフトに組み込んであるプログラムと対戦する形式で行われるというものだった。
 幼い頃から士官を目指し、そのための研鑽を惜しまなかったラインハルトは、当然このシミュレーションに於いても自らと幼なじみの勝利を確信していた。
 しかし、結果は敗戦に終わった。
 ラインハルト達以外のチームは目も当てられない惨憺たる有様であったので、周囲は二人を褒めたがラインハルトは納得できなかった。
 再戦を申し出たが、教授は今回はあくまで体験だから、と取り合ってくれない。食い下がるラインハルトに教授はあることを教えた。
 『この対戦プログラムは、この学校のとある講師が嘗て生徒だった時の実際の戦略戦術シミュレーションを元に構築されている』と。
 教授はラインハルトの興味をひとまず逸らすことを目的にその情報を教えたのだが、今度はその講師の名前を教えてくれと迫ってくる。
 結局、根負けしたのは教授の方だった。
『戦史研究科のヤン・ウェンリー講師』
 その日からラインハルトの中にヤンへの憧憬と対抗心というふたつの感情が芽生えた。
「ヤン先生は一体どんな人だろうな、キルヒアイス…」
「きっと、立派な方ですよ、ラインハルト様」
 二人はあれこれとヤン・ウェンリー像を想像し、本物のヤン・ウェンリーに会える日を心から待ち望んでいた。
 しかし結局は二人揃ってコース選択で戦略研究科を選択したことにより、戦史研究科目は2年次にならないとカリキュラムに入っては来ないことが判明した。
 そしてヤンの方はと言えば、授業の時間以外は研究室か準備室に籠もっていることが多いため滅多に校舎内にいることがなく、ラインハルトとキルヒアイスの二人はヤンに会うことを心から望みながらも、ついに丸々1年間、ヤンに会うことが叶わなかったのだった。

   

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