宵闇に龍は誘う

  05

 by 朔夏




 「っ…!何を…っ…」
 ヤンの細い右手首はロイエンタールの大きな手に易々と掴まれ、左腕はその身体ごと背に回された腕に拘束されてしまう。
 身体を捩って逃れようとするが、ロイエンタールの鍛えられた身体はびくともしない。掴まれた手首は締め付ける力の強さに血流が弱まったのか痺れすら感じた。
「…っ、ロイ…!」
 名前を呼ぼうとしたヤンの唇が熱いものに遮られる。
「ん…っ」
 噛み付くように侵入してくる熱い塊はヤンの口腔を暴君のように蹂躙する。
 逃げを打つ舌を絡め取られ、強く吸い上げられてヤンは白い喉を晒して仰け反った。
 唇が傷付いたのか、鉄錆の芳香のする口付け。
 掴まれた手首も、強く締め付けられる肢体も、その口付けすら苦痛を与えることが目的のようで、ヤンのきつく閉じた眦には生理的な涙が滲んだ。
 ロイエンタールの触れる場所全てが灼けるような熱さと痛みを訴えてくる。
「はっ…あ、」
 呼吸すらままならない口付けにヤンの膝は震えた。
 左手は何時の間にか縋り付くようにロイエンタールの軍服の背に回されている。
 唇を解放されてもヤンは目を閉じたまま、荒い息を紡いで酸素を求めた。
 狼藉に血の滲んだ唇が赤く濡れ光って艶めかしい。
 ロイエンタールの金銀妖瞳が獲物を狩る猛禽類のような光を浮かべて薄く嗤った。
「あっ…、何を…!?」
 ロイエンタールはヤンの躰を解放したかと思うと、軽々と横抱きに抱え上げた。
 先程の行為に脳貧血のような状態に陥っているヤンは抱え上げられて目眩のような感覚に襲われ、咄嗟に再び目を閉じた。
「掴まっていないと怪我をしても知らんぞ。」
「!?」
 言葉の意味を理解する間もなくロイエンタールがヤンを抱きかかえたまま街灯の光の届かない樹木の狭間へ走り込む。
 中央の噴水から周囲を円形に取り巻く司令部の建物までの空間は四方に向かってそれぞれ30m程度だった。この中庭は自然の森林に似せて植樹された樹木や下草が生い茂るリラクゼーションのための空間となっている。
 建物に向かって移動しているのかとヤンは考えたが、その予想は裏切られた。
 薄暗がりの中を10m程度移動したロイエンタールがいきなり立ち止まり、ヤンの身体を抱え直すように持ち上げたかと思うと、目の前の地面に現れた真っ黒な空間に飛び込んだのだ。
 ヤンには何が起こったのか分からず、突然の浮遊感と次に訪れた衝撃に目を瞑り、舌を咬まないようにするのが精一杯だった。
 ロイエンタールがヤンを抱えたまま立ち上がる気配に、ヤンは恐る恐る目を開けるが周囲は真っ暗で何も見えない。
「暴れても無駄だから、おとなしくしているんだな。」
 そう言って、ロイエンタールはヤンの足を先に床に下ろし、上半身を抱きかかえるようにして立ち上がらせた。
 ヤンは目を細めて周囲を探るが、今いる場所が何処なのか、どのぐらいの空間なのかまったく判断する手立てがなかった。
「今入ってきた入り口は既に閉鎖されている。何かが入り口を通過するとセンサーが働いて自動でシャッターが閉まる仕組みだ。内部から手動で操作すれば再度開けることは可能だがな。」
 だから二人で同時に入るには今のような方法しかないのだ、と説明するロイエンタールにヤンは疑問を投げかける。
「…脱出口なのに一度に一人しか入れないのかい?」
「元々、司令官用の脱出口だからな。残りの人間は司令官を逃がして入り口を死守すればいいというわけだ。」
 ロイエンタールの説明にヤンが眉根を寄せて嫌そうな顔をする。暗闇でロイエンタールには見えないと思ったが、笑ったような気配が伝わってきた。
「…残念だけど、私は一人で脱出してもすぐに捕まるから何の役にも立ちそうにないよ。」
「…そうだな、力もないし銃も得意そうではないな。」
「あいにく、片割れの運動神経とは生まれた時に生き別れたんだ。」
「それは知っている。」
 端的な肯定の言葉に、いつの間にか普通に話してしまっていたヤンは口を噤んだ。
 それに呼応するかのよう周囲が明るくなる。 ロイエンタールが壁際のパネルを操作して電灯を点けたのだった。
 急激な明るさの変化に瞳が付いていかずに、ヤンは強烈な眩しさを感じて目を閉じてやり過ごした。目が慣れてくると実際の光量は脱出ルートを移動するには充分だが、本を読むには目が悪くなりそうな程度のものだった。
 だが、急にはっきりと見えたロイエンタールの美貌とその瞳の光彩に、ヤンは息を止めて見入った。
 あの夏の記憶にある彼は大人びてはいたが、やはりまだ10代の少年だった。
 今こうして見るオスカー・フォン・ロイエンタールは、金銀妖瞳の色はそのままに、瞳の持つ厳しくも落ち着いた光や、成熟した雄の色気を醸し出す美貌、鍛えられた筋肉を鎧う体躯、すべてがしなやかに成長を遂げた成獣のものだった。
 それに引き替え自分はどうだろう。
 背も幾分かは伸びたが、ひょろひょろとした肉付きの薄い、申し訳ない程度の筋肉しか持ち合わせていない体。
 嫌々入学した士官学校を出て、望みもしないのに偶然の産物で得たような司令官の椅子。
 彼のように美しくもなく、強くもない自分。
「…それはそれは。私の運動音痴は帝国にまで聞こえ渡るほどでしたか?」
 彼が執着しているのは今の自分ではなく、美化された過去の想い出に過ぎないのだ。
 ヤンの言葉にロイエンタールの表情が険しくなった。
「…今ここにはお前と俺の二人しかいない。いい加減に嘘をつくのはやめたらどうだ?」
 はぐらかそうとするヤンの態度に苛立ったようにロイエンタールはヤンを追い詰める。
「…嘘?何度も言っているでしょう。私はヤン・ウェンリーであって貴方の知っている人間ではないと…」
 ロイエンタールの左右の色の異なる瞳を見つめながら、頑なに否定するヤンの深い黒の瞳は言葉を裏切るように揺れていた。
「……」
 無言で睨め付けるロイエンタールの瞳に耐えきれない風情で顔を逸らす。
 緊張に乾いた唇の傷が痛んで、ヤンはちろりと舌先で嘗めた。
 それを見ていたロイエンタールの瞳が欲望の色を穿いて眇められる。
「…そうか、結局お前は俺を裏切った…いや、最初からすべて嘘だった、というわけだな」
「…嘘、なんて…」
 ロイエンタールの詰問に弁解することもヤンには出来なかった。
 彼にどう思われようとも、ヤンは自分がシャオであることを認めるわけにはいかない。
 この邂逅が終われば互いを知らぬ者同士として、これまでどおり敵味方として殺し合うだけの二人になるのだ。
 今ここで想いを告げたとして、それがなんになるというのか。
 ロイエンタールから顔を逸らしたまま、ヤンの震える喉が機械的に言葉を紡ぐ。
「…私は、貴方なんて知らない…。私にとっての貴方は、今までも…これからも…、敵でしかない…!」
 ヤンの絞り出すような声に、ロイエンタールの両の手が拳を握る。
 白くなるほど握りしめられた拳は震えていた。
「そうか。卿がそこまで言うのならそうなのだろう。…では、ヤン・ウェンリー要塞司令官殿、こちらもそのつもりで卿を扱わせていただこう」
 ロイエンタールの金銀妖瞳が昏い色を帯びて光る。
 その声音の冷たさに、ヤンは思わず顔を上げてロイエンタールを見た。
 目があった瞬間、獰猛な肉食獣にも似たロイエンタールの冷笑にヤンは全身を強張らせて立ち竦む。
 ゆっくりとスローモーションのように近付いてくるロイエンタールの掌は見えていたが、肩を鷲づかみにしたその手を振り払うことなど、ヤンには出来るはずもなかった。 

 

「…こんなことをして何の意味があると?」
 ヤンは自らの軍服のスカーフで、両腕を戒められていた。その腕は、脱出口の床から地上へ上がるため壁に取り付けられた梯子へと括り付けられている。
 見上げると、先程ロイエンタールがいとも軽々とヤンを抱きかかえたまま飛び降りた入り口から床までの高さは6〜7m程度だった。
 これがヤンだったら一人で飛び降りても足の骨を折るぐらいするかも知れない。
 イゼルローン要塞司令官を拉致し、その司令部の敷地内で捕縛しているロイエンタールは、その端麗な容貌に冷笑を浮かべたままヤンを観察している。
 ヤンは出来うる限りの努力を試みたが、戒めは綻びることがなかった。何度も力を込めて引いた手首は鬱血し、ちりちりと痛みを訴える。
「意味?…今や同盟軍の守りの要であるイゼルローン要塞の司令官であり、同盟の頭脳とも言うべきヤン・ウェンリーがこの要塞から姿を消す。これは現在の宇宙の覇権を巡る戦いに大きな変化をもたらす一大事だと思われるが…、卿はそう思わないか?」
 ヤンの向かいの壁に背を預け、腕組みをしたまま、ロイエンタールは問い掛ける。
 姿を消す、という表現にヤンは悪い予感が頭を掠めたが、ロイエンタールがどういうつもりであっても、そう簡単に思い通りにさせるわけにはいかない。
「この捕虜交換の最中にそんなことになれば、真っ先に疑われるのは貴方達帝国軍でしょう。このイゼルローン要塞を無事に出られるとでも思っているのですか?」
「…どうやらこの要塞の兵士達は、あの防御指揮官を筆頭に卿の信望者の集まりらしい。卿を人質に取れば脱出は可能だと思うが?」
「そんなことをローエングラム候が許すはずがない!」
 あの金髪の指揮官はそういう姑息さを好みはしないだろう。
 会ったことはなくとも、彼のこれまでの行動や言葉からヤンはそう信じていた。
 ラインハルトの名を聞いて、ロイエンタールの柳眉が僅かに上がる。
 だが、すぐに面白そうな顔で挑発的に笑った。
「…さて、ローエングラム候は卿が気になって仕方がないようだからな。もしも卿が自ら亡命を希望するのであれば、喜んで帝国軍に迎えられると思うのだが?」
「…私が自ら望んで帝国へ、だって…?」
 そんなことが可能であるはずもないと思いながら、かつて交わした幼い約束が脳裏に甦る。
 父を事故で失わなかったら果たされていたはずの約束。
 目の前にいる男に捧げた永遠という名の誓い。
 うつむき加減のヤンの宇宙色の瞳が戸惑い揺れる様をロイエンタールはじっと見ていた。
「…今さら、そんなことが出来るはずもない…。私は、君たちにとって倒すべき敵だ…」
 呟くように言葉を紡ぐヤンに音もなく近付いていたロイエンタールの指が優美な仕草でヤンの細い顎を持ち上げる。
 至近距離でロイエンタールの瞳に見つめられてヤンは息を呑んだ。
「では、お前は今ここで俺を殺すことが出来るか?」
 青と黒の金銀妖瞳が強い輝きを放ちながらヤンを試すように見ている。
 その瞳に映る自分自身は茫然と彼を見ているだけだった。
「敵だというなら…、お前が俺のことなど知らないと言うのなら、今此処で俺を殺すがいい」
 理由が必要なら与えてやる。
 そう言って、ロイエンタールは両の腕を頭上で戒められたヤンの軍服の上着とカッターシャツの胸元を引き裂くように開かせた。


 

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