帝国軍の艦隊がイゼルローン要塞へ滞在している二日間は、非常事態に備えてヤンを始め士官は夜間も司令部待機となっていた。 もちろん、交代制で睡眠や食事は摂っており、実際には通常勤務の場合とそう変わらない。特に独身者にとっては、官舎へ帰って眠るか司令部の仮眠室で眠るかの違いだけだった。 ヤンは司令官執務室に併設されている仮眠室で眠ったふりをしながら長い一夜を過ごした。 眠ろうとする気持ちはあるのだが、眠りに落ちようとするとロイエンタールの瞳や声、触れた体の感触、そして封じ込めたはずのあの夏の記憶が甦ってきて眠りを遠ざけてしまう。何度も寝返りを打ちながら、ヤンはひたすら時間が過ぎるのを待った。 夜が明ければ帝国軍は出航準備を整え、昼にはイゼルローンを発つ予定になっている。 見送りはキャゼルヌに任せて自分はここに籠もっていればよい。 本来なら最後まで自分が出るべきだろうが、これ以上ロイエンタールの眼差しの前で平静を保っていられるか自信がなかった。 枕元のデジタル時計の表示は4時50分を示している。 さすがにこんな時間にキャゼルヌを起こすわけにはいかない。 それでなくとも今回の捕虜交換式で一番疲労しているのは、間違いなくあの要塞事務監なのだから。 「ユリアンもまだ寝ているだろうな…」 もう眠れないまま横になっているのも辛くなってきて、ヤンは身体を起こしてベッドの上に胡座をかいた。 少し頭が重かったが寝ていないのだから仕方がない。 戦闘中であれば否応なしにタンクベッドの世話にならねばならないところだが、今は平常時である。 「仕方ない…動けば疲れて眠くなるかもしれないから、散歩でもするか…」 と言っても、司令部の外に出ることは出来ないので内部を散策するぐらいしか出来ないのだが、これ以上ベッドの上にいても何の役にも立ちそうにないのでヤンは諦めてベッドを離れた。 もしもヤンが帰ってくるまでに誰かがここに来たら心配するだろうと思い、ヤンは『散歩に行くが指令部の敷地からは出ないので心配しないように』と書き置きを残した。 しかし、司令部の建物の中を散策しても面白くもなんともない。 2月と言ってもイゼルローンは人工天体なので気候は冬というわけではない。かと言って年がら年中同じ気温なわけでもないが、外に出るのに寒さを感じるほどではなかった。空はまだ明るくなってはいなかったが、司令部の廊下は全フロア煌々と灯りに照らされており、中庭にもライトが点灯されているため足下が見えないようなことはなかった。 「…そうだな、中庭にでも行ってみるか。」 建物から外に出る通路には全て警備兵と指紋照合を必要とするセキュリティロックが配備されていたが、中庭はその建物に囲まれているため警備兵はいなかった。ドアの横に取り付けられた照合ディスプレイに手を触れさせると、軽い電子音が響いてロックが開いたことを知らせる。 中庭に出ると、ヤンは真っ直ぐに中央の噴水に向かって歩いた。 澄んだ朝の空気がヤンの重たい頭に新鮮な酸素を送り込んでくれる。 ヤンは腕を伸ばして深呼吸すると、噴水の側のベンチに腰を下ろした。 空を見上げると、いくらかうっすらと白みがかってきてはいるが、まだ星の瞬く様子が見える。 父と宇宙船に乗って星間を旅している時は周囲は星だらけで、こんな風に遠い空を見上げる必要はなかった。 手を伸ばしても届かない星は、傍にいるのに掴むことが叶わない愛しい人に似ていて。 「出逢わなければよかったのかな…」 ヤンの独り言は誰にも聞かれることなく、静穏な大気に溶けていくはずだった。 「それは俺のことか?」 突然、誰もいないはずの背後から聞こえた声にヤンは驚きを隠せなかった。 それは今この場所にいてはならない人の声だったのだから。 「…ロイエンタール、提督…」 ベンチから立ち上がりかけた中途半端な姿勢で振り向いたヤンは目を瞠った。 ベンチの後ろに等間隔に植樹された常緑樹の間に佇んでいるのは、間違いなく銀河帝国の軍服を身に着けたロイエンタールその人だった。 「なぜ…?どうやってここに…?」 昨夜は確かに司令部に入ることが出来ただろうが、あくまで限定された時間と場所でのことである。 帝国軍代表とは言え、自由に司令部への立ち入りが許されるはずもない。 それに通常の経路で入ったのであれば、こんなところに一人でいるということはありえない。 「俺は以前この要塞に配属されていたことがある。まさか正攻法でない司令部への侵入方法が皆無とは思っていないだろう?」 確かに司令部が占拠され、通常の出入りが不可能となった場合に使用できる脱出経路はある。だが、脱出時はともかく、そうやすやすと外側から侵入できるような構造にはなっていないはずだった。 ヤンの考えが伝わったのか、ロイエンタールは薄く笑った。 「まあ、昨夜ここに入っていなかったらこのルートでの侵入は不可能だったが、運良くここを指定してくれたからな…帰る前に少々細工をさせてもらった。もしも見送りの人間があの物騒な防御指揮官だったらとてもそんな事はさせてもらえなかっただろうが、お前の計らいで木偶の坊が見張りに付いたからな。」 昨夜はヤンのためとは言え、帝国軍を代表して来ている客人にブラスターを突き付けるような真似をしたシェーンコップに当の客人を見送らせることは憚られた。シェーンコップがそれほど分別のない真似をするとは思ってはいないが、ロイエンタールが彼に何を言うか分からないというヤン自身の恐れもあったためだ。 それがロイエンタールに利をもたらすなどとは、ヤンにも想像することはできなかった。 「…それで、何が目的なのです?」 真っ直ぐロイエンタールに向き直り、周囲を気にしつつ抑えた声音で問うヤンを見て、ロイエンタールが冷たく嘲笑う。 「目的…?今さらそんなことをお前に聞かれるとは思っていなかったがな、シャオ。」 「……」 かすかに肩を揺らしたもののヤンは表情を変えず、ロイエンタールから瞳を逸らさなかった。 ロイエンタールも強い瞳でヤンを射抜くように見ている。 「…ロイエンタール提督、昨夜も申し上げましたが、閣下は私とどなたかを勘違いしておられるのです。私はヤン・ウェンリーという名しか持ち合わせておりません。お疑いなら軍の履歴証明をお見せしましょう。」 「ふん、そんなものが何の証拠になる?お前が言ったんだろう、フェザーンでは帝国籍ですら金で買える、と。」 「……そんなことを私は言った覚えはありません。そうおっしゃるなら閣下の方こそ、私があなたの知っている人間だという証拠でもお持ちなんですか?」 ヤンに挑むように畳み掛けられて、怯むかと思われたロイエンタールはまったく動じる様子がなかった。 それどころか余裕の笑みさえ浮かべているようにも見える。 「証拠か…それならばある。」 「……?」 訝しげにヤンはロイエンタールを見る。 証拠などあるはずがない。 今やこの世にヤンと血の繋がった人間はおらず、ヤンがシャオであった過去を知る人間を探し出すことなど、砂漠の砂の中から一粒のダイヤを探し出すことにも等しい。 まして、父が死んだ後に初めて手にした自分自身の同盟籍の登録情報には、慣れ親しんだ『シャオ』の名も、真実の名だと告げられた『フェイロン』の名もなかった。 そこには母方の親戚が母の代理として登録したことになっている『ウェンリー』という名があるのみだった。 今となっては経緯は分からないが、母方の親戚が父を嫌っていたことは幼かったヤンですら知っていた事実である。おそらく親戚は父の付けた名前をわざと登録しなかったのではないかと当時のヤンは思った。 だが何をするにしても公式の登録情報にヤン・ウェンリーと記されている以上、彼はヤン・ウェンリーとして生きていくしかないのだ。 最初は名前を呼ばれても自分のことだと気付くまでに時間がかかり、いかにもやる気がない、いつもぼけっとしていると言うのが一般的な評価だった。 ヤン自身も自分をよく見せようとか、目立ちたいという性分ではなかったので周囲の評価がどうであろうと気にすることもなく、自分の興味のあることにしか意識を向けないというのは事実であったので、あながち間違ってもいないだろうと苦笑混じりに納得していた。 士官学校を卒業する頃には、ヤンはもう自分自身がヤン・ウェンリー以外の誰かであったとは思えなくなっていた。 何故なら、ヤン・ウェンリーでない彼を知っている者は周囲に誰一人おらず、彼らの中で自分はヤン・ウェンリーとしてしか存在していないのだ。 ヤンの胸には小さな硝子の欠片が刺さったような痛みが残ったが、この世界で生きて行くには『シャオ』という人間はもう死んでしまったのだと思うしかなかった。 そう、シャオは死んでしまった。
だから、シャオは彼の恋人の待つ帝国へ行くことは出来なかった。
未来永劫、互いの伴侶であろうと誓った君の恋人は、もうこの世界の何処にも存在しない。
そう思って生きてきたのに。
なぜ今さら、こんな場所で再会してしまうのだろう。
「…悪ふざけはもう止してください、ロイエンタール提督。証拠など何もありはしないのでしょう?……さあ、皆が起きないうちにここを出て行ってください。」 ヤンの視線はロイエンタールを見てはいたが、もう先程までの厳しさは消えていた。 どこか疲れたように笑って、ヤンは中庭から建物へ入る入り口を指し示す。 「私がロックを開けますから、堂々と表玄関から出て行かれるとよろしいでしょう。大将ともあろうお方があまり無茶をなさるものではありません。」 さあ、とヤンが促すがロイエンタールはヤンを見つめたまま動かない。 「…ロイエンタール提督、出て行かれないのでしたら警備兵を呼ばなければなりません。」 「…拘束されたら2、3日はこちらに滞在させてもらえるのかな?」 ロイエンタールの軽口はヤンは頬に朱を上らせた。 「…っ、馬鹿なことを!いったい貴方は何がしたいと言うんだ!心配なさらずとも今すぐ帝国に帰っていただきます!」 ヤンが胸ポケットの非常発信装置に右手を持って行こうとした、その瞬間。 視界が暗くなったとヤンが感じた時には、 ロイエンタールは既にヤンの目の前の呼吸すら触れそうな位置に立っていた。
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