『am5:18』 枕元の時計の電光表示を見て、シェーンコップは大きく深呼吸して寝返りをうった。 昨夜24時までの勤務だった彼にしてみると起床予定時間にはまだ早いが、彼にとって眠りから覚めるということは睡眠が充分足りたか、あるいは彼の永年培ってきた生き残るための勘が、眠りから覚めなければならない理由を察知したかのどちらかだった。 だが、何かが起きるとしてもここは要塞の中なのだ。まして交代勤務で完全に眠ることがない司令部の中にいて、何かが起きれば間違いなく自分の元へ第一報が入るはずである。それがないということは前者なのだろうとシェーンコップは判断した。 ベッドから起きあがり、ひとつ伸びをする。 今日は捕虜交換のためにイゼルローンへ滞在していた帝国軍艦隊が宙港を出発するため、ヤンは見送りに出るだろう。 当然、自分も警護のために着いていくが、その前に部下への指示と昨夜からの引継ぎを終わらせておく必要がある。 「…超過勤務手当は期待できそうにないな」 愚痴のような独り言を言いながらも、その口元は笑みを形作っている。 いつからこんなに仕事好きになったものやら、と自嘲気味に笑って、シェーンコップは防御指揮官執務室の仮眠室に備え付けられた簡易シャワールームへと足を運んだ。
酷い行為の間、自らの軍服の襟を噛み締めて痛みに耐え、喉を突いて出ようとする悲鳴を抑えることは可能だった。 けれども、視界を閉ざしていても溢れ出す涙を留めることは叶わなかった。 呼吸すら満足に出来なかったせいか頭が酷く痛む。 「シャオ…」 軍服に包まれたまま震えている細い肩から、梯子に括り付けられた両腕、そして縋るように梯子を握りしめて、強張ったまま白くなった指先。 その両手首を戒めていたスカーフを解いても、硬直したように梯子に貼り付いたままの指を一本ずつ優しく引き剥がすように解いていき、全ての指が離れるとロイエンタールはヤンの手を取り、鬱血し擦り切れた血の滲む手首に口付ける。 弱々しく頭を垂れたままのヤンをロイエンタールは身体ごと引き寄せ包み込むように抱き締めた。布越しにも熱く燃えさかるようなロイエンタールの身体とは対照的に、ヤンの身体はひどく冷たい。 ロイエンタールはヤンの剥き出しの足を抱え込み、胡座をかいた腿の上に横抱きにする。かろうじてシャツの裾で隠れるものの、汚れた下肢が目に入りそうで、ヤンは目を逸らすためにロイエンタールの肩口に顔を埋めた。 その様子に含み笑いをして、ロイエンタールはヤンの逸らされた白い首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。 「…お前の匂いだ…」 ロイエンタールの言葉にヤンはびくりと震え、身体を硬くする。 「…本当に俺を欺けると思ったのか…?」 微かに笑いを含んで、ロイエンタールの指がシャツの合わせ目へと侵入し、撫でるような仕草で軍服と共に肩口を露わにさせる。 ヤンの細い首筋から肩先までの白く滑らかな皮膚の感触を楽しむかのように唇と舌で辿ると、肌寒さを感じたのか、ほんの僅か震えて見せた。 「確かに最初は俺も騙されるところだったが…、お前が転びかけたせいで騙されずにすんだ」 お前の運動神経の悪さにも感謝しなくては、と耳元で囁いて、ロイエンタールはヤンの俯いたままの柔らかな頬に手を添え、髪に唇を落とす。 「…あれから…多くの女を抱いたが、誰一人としてお前と同じ匂いの女はいなかった」 ヤンの頬に残る涙の感触に、ロイエンタールの胸は微かに痛んだ。 初めて逢った15の頃にも随分と幼く見えて、到底同い年とは信じられなかったが、今でも実年齢から見るとかなり若く見える。 「お前は知らなかっただろうが…お前の置いていった守り袋の中身は、伽羅と呼ばれる香木だ…。まだ人類が地球でしか生活できなかった頃には自然に存在していたようだが、今では専門の研究機関の標本としてしか手に入れることは出来ない。お前の先祖の残した黒い龍の置物も焼けた残骸を成分分析したところ同時代の黒伽羅と呼ばれる香木で作られていた」 ロイエンタールの指がヤンの顎を掬い上げるようにすると、ヤンは逆らうことなく顔をあげる。だが、その闇色の瞳はロイエンタールを見ることはなく、震える睫毛に覆われた視線は逸らされたままだった。 「…お前の身体からはいつも伽羅の香りがしていた。今はこうして近付かなければ嗅ぎ取れないほどの香りだが…この香りが、俺に真実を教えてくれた」 ヤンのシャツと軍服を肩に引き上げ、前を合わせると、ロイエンタールは再びヤンの身体を強く抱き寄せる。 腕の中にすっぽりと納まる細い身体。その腕がロイエンタールを抱き締め返してくれることはなかったが、微かに残る移り香と肌理細かな肌の手触りがロイエンタールをあの夏の日に引き戻していた。 まるで時が遡ったかのような感覚に、かつての自分が感じたであろう幸福を思い起こす。 生まれたことを呪われて育った自分が初めて感じた命への感謝と愛情。 だが、束の間の別離であったはずの旅立ちの時、必ず自分の元へ帰ってくると約束した恋人はその約束を違え、今この瞬間も帝国に反旗を翻す叛乱軍最大の砦として存在しているのだ。 ふと、思い出したようにロイエンタールはヤンをそっと床に下ろし、ほんの少しヤンから身を離すと、自らの襟元をくつろげ、胸元を探る。 首に掛けられた細い鎖を引きちぎると、銀色の粒がきらきらと輝いて床に散らばり、俯いたままのヤンの意識を引いた。 右手に何かを握り込んだロイエンタールは、ヤンに視線の先にその拳を持っていき、ゆっくりと握った指を開く。 ヤンの身体が揺れて、唇から息を吸い込むような音が漏れた。 「…お前が預けて行った黒い龍の瞳だ。最初はお前の希望どおりにチョーカーに細工したが、お前は帰ってこなかったからな…。1年程前に指輪に細工し直させた」 そう言って自嘲気味に笑うと、ロイエンタールは力の入っていないヤンの左手をそっと掬い上げ、薬指に瑠璃色の石の指輪を嵌めようとする。 しかし、ヤンの指はロイエンタールが予想したよりも細く、そのままではすぐに落ちてしまいそうな緩さだった。 「…もう少し、肉を付けろ」 嘆息してロイエンタールは指輪を外し、中指へと付け替えた。少しは緩いが、抜け落ちる程ではないことを確認する。 ヤンはロイエンタールに捕らわれたままの指輪を嵌められた手を、ただ虚ろな表情で見ている。ヤンもまたロイエンタールと同じように、なくしてしまった過去の幻を探しているのかもしれない。 「フェイロン…」 ロイエンタールはヤンが記憶の彼方に封じ込めた名で呼びかける。 父親が死に、身寄りも行く当てもなくなって、ロイエンタールの待つ彼方の国へ帰ることは出来ないのだと分かったその時から。 永遠の誓いの証としてロイエンタールだけに贈った真実の名は、もう二度と誰も口にすることのない名前のはずだった。 その名を持つ者は、もうこの世の何処にも存在していないのだと、自分自身に言い聞かせて生きてくるしかなかった。 「俺の名を呼べ…」 ロイエンタールがヤンの左手を掬い上げ、震える指の一本一本に口付ける。 そうしながらロイエンタールの金銀妖瞳はヤンの双眸を捕らえるように目線を上げる。 悪魔に魅入られたように視線を奪われて、逸らすことも出来ない。 「俺と一緒に来い」 囁く声は甘く優しく、そして深い湖のように澄んでいる。 帝国の煌びやかな軍服を着て、旗艦トリスタンの指揮卓で戦闘の指示を出す彼はさぞかし美しいだろう、と思う。 「俺と…共に生きろ」 …それが、2人の願いだった。 幼い子どもたちは願いは叶えられるものと信じて容易く繋いだ手を離した。 それが叶わぬと知った時も諦めたふりをして、それでも心の奥底では、まだ信じていた。 いつかきっと、ふたたび君に出逢い、そして寄り添って生きていけると。 けれど、ふたたび出逢ったからこそ気付いてしまったのだ。 もう、願いは叶うことなどないのだ、と。 何も知らず、何も持たず、ただ互いを愛おしむ心だけで生きていける子どもたちではなくなってしまったのだと、気付いてしまったから。 「…君と…一緒に行くことは、できない…オスカー…」 絡んだ視線をそのままに掠れた声で囁くように告げられたヤンの拒絶の言葉にロイエンタールは激昂することはなかった。 ただ声もなく無表情にヤンを見ている。 ロイエンタールの眼差しに耐え切れずヤンは目を逸らして俯いた。 取られたままの左手がそっと離されて、ぱたりと床に落ちラピスラズリの輝きがヤンの視界に入る。 対となる黒曜石の指輪はロイエンタールの指にはない。 それが今の2人を象徴しているかのようにヤンには感じられた。 互いの鼓動も聞こえるのではないかと思うような沈黙に耐え切れず、ヤンが何を言うともなく口を開こうとしたが、それよりも先に言葉を発したのはロイエンタールだった。 「…では、もう一度だけ聞く」 ロイエンタールの眼差しが自分を見ているのを感じたが、ヤンは顔を上げることが出来なかった。ただ自分の指に光る彼の瞳の色の指輪を見ている。 「…お前と俺は、これから先も敵同士にしか成り得ないのだな?」 ことさらゆっくりと紡がれたロイエンタールの問い掛けにヤンは微かに身体を震わせた。 きっと、これが彼との最後の邂逅となるだろう、とヤンは思っていた。 もしかしたら数ヶ月後にも彼と戦うことになるかもしれず、あるいは互いの死すらも知ることの出来ぬままになるかもしれない。 もし戦ったとして、自分の指揮により彼を殺すことになるのか、自分が彼に殺されるのかも分かりはしないのだ。死の瞬間にそれを感じることが幸福であるのか不幸であるのかはヤンには分からないが、自分が死んでいくことさえ理解できないような死に方は艦隊戦の最中には少なくない。 例えそうなるとしても、自分は今ここでロイエンタールを選ぶことなど出来ない。 それは即ち、自分を頼りにしてくれている大切な家族や仲間を見捨てることに他ならないのだから。 そう自分自身に言い聞かせながら、それでも、彼と行くことを望む我が侭な自分が確かに胸の内にいる。 だが、自身に選択できる道が最初からひとつしかないことは既に分かっている。 ロイエンタールを見ることも出来ないまま沈黙しているヤンの瞳は逡巡の色に揺れていたが、やがて瞳を閉ざしたヤンは顔を俯かせたまま小さく頷いた。 「…そうか」 再び二人の間に沈黙という名の重苦しい空気が満ちた。 このまま何も言わずにここを立ち去って欲しいと思いながら、口を開くと違う言葉を言ってしまいそうで、何も選択できないままに黙っている卑怯な自分をヤンは嫌悪した。 強く目を閉じて、自らの腕を抱くように力を込める。 ロイエンタールの立ち上がる気配が伝わってきてヤンが目を開けると、ヤンの額に銀色に光る物体がぴたりと押し当てられた。 それは、銀河帝国の紋章が刻印されたロイエンタール自身のブラスターだった。 「……っ」 ヤンは身体を硬くして息を呑む。 皮膚に触れる銃口の冷ややかな感触を知覚しながらも、その双眸は吸い寄せられるようにロイエンタールの金銀妖瞳に奪われる。 深淵の闇色と、宵の闇色の対の瞳がヤンの姿を映し出している。 そして、ヤンの漆黒の瞳にはロイエンタールが。 「もう…俺はお前の言葉を信じない…」 そう言って微笑ったロイエンタールを。 とても、綺麗だと、ヤンは思った。
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