宵闇に龍は誘う

  08

 by 朔夏



 身支度を整え、防御指揮官執務室から薔薇の騎士連隊の待機所へ内線を入れる。
 そちらにも待機員はいるはずなので、まだ6時になったばかりだが連絡は着くはずだった。
 しかし、何度コールしても返答がない。
 緊張感が背中をひたひたと這い上がってくる感触にシェーンコップは眉を顰めた。
「シェーンコップ准将?」
 ドアをノックすると同時に名前を呼ばれて、シェーンコップの表情は強張った。
 持っていた受話器を叩き付けるように戻すと、大股で部屋を横切り、ドアを開ける。
 声の主は、よりによってユリアン・ミンツだった。
 ユリアンの戸惑いがちな表情には緊急とか非常という色は見当たらない。
 もしも彼の保護者に何かがあったというのなら、もっと焦っているだろう。
「…どうした?」
 それでも、イゼルローン要塞内に帝国と同盟の両軍が存在しているという過去に類を見ない状況にあっては、何が起こるか分からない不安が付き纏う。
 特に、あの帝国軍代表のオスカー・フォン・ロイエンタール。
 昨夜の会談の内容を聞くことは出来なかったが、別れ際の彼のヤンを見る瞳には、ただの敵将に対する興味や敵意とは異なる何か底の知れない色彩が見えた。
 シェーンコップの緊張感がユリアンに伝染したのか、それともユリアン自身が何かを感じたのかは分からないが、ユリアンもどことなく緊張した顔付きになっている。
「…その…シェーンコップ准将のところに、ヤン提督はお見えになっていませんよね…?」
「…昨夜は執務室に泊まったはずだが、いないのか?」
 シェーンコップは確かに昨夜、ロイエンタール大将との会談後にヤンを貴賓室から司令官執務室に送り届けた。ヤンは、そのままそこに泊まると言っていたのだ。聞きたいことはあったが、ヤンが疲れた表情をしていたので、昨夜は何も聞かずに執務室を後にした。
「いえ、泊まられたのは確かだと思うんですが、6時起床の予定だったので先程伺いましたらいらっしゃらなくて…デスクにこの書き置きがありました。」
 差し出された紙片には確かに見慣れたヤンの文字で『散歩に行くが指令部の敷地からは出ないので心配しないように』と書かれている。
「珍しいな。あの人にしては随分と早起きだ」
「そうなんです。提督がこんな時間に、ご自分で起きられたことなんて、僕が知る限りではないものですから…それでちょっと心配になって…」
「珍しい早起きに早朝散歩か…確かにな。…要塞事務監の部屋へは?」
「キャゼルヌ事務監は昨夜は3日ぶりにご自宅へ戻られていて、出勤は7時の予定です。一応、執務室へもコールしてみましたが不在でした」
 そうか…と呟いて、シェーンコップは先程は連絡の着かなかった薔薇の騎士連隊待機所のことを思い出した。
「坊や、薔薇の騎士の待機所へ行ったか?」
「あ、はい。一通り探して歩いたので、さっき寄ってみたらリンツ中佐がいらっしゃいまして、事情をお話ししたら提督を探してくださるとおっしゃいました」
「リンツか…、まあ本当に散歩だと言うのなら、あまり大げさにしては後で恨み言を言われるだろうな…だが、取り敢えず俺も探そう。坊や、副官殿へは?」
「大尉は官舎に戻られていますので、まだ連絡はしていません」
「…まあ、いいだろう。じゃあ、俺はひとまずリンツと合流する。坊やは、もう一度執務室を確認してから連隊の待機所へ来てくれ」
「分かりました」
 ユリアンのアーモンドアイは緊張してはいたが、シェーンコップという力強い同行者を得て、ややほっとした様子を見せ、シェーンコップに頭を下げると踵を返して去っていく。
 残されたシェーンコップは廊下に出て執務室のドアをやや乱暴に閉め、凭れ掛かるように背を預ける。眦をきつくして、何かを考えるように顎に手をやり宙を睨み付けると、何故か脳裏に浮かんでくるのは、あの左右の色の異なる瞳を持った敵将だった。
「…考え過ぎか…?」
 シェーンコップの独り言に答える声はなく、彼はドアから背を話すと、大股で廊下を歩き出した




「隊長、じゃなくて准将!」
 待機所付近まで行くと廊下の向こう側から歩いてくるカスパー・リンツと遭遇した。やや小走りに駆け寄ってくる。
「ユリアンから事情は聞いたが、司令官殿は見付かったか?」
「いえ、それが見あたらないんですよ。念のため、外部への出入り口は警備の人間に全部確認して回りましたが、ヤン提督が出て行かれた様子はないんです」
「モニターの記録は?」
 指令部内には警備上、全フロアとエレベーターに監視カメラが設置されている。さすがに執務室内には置かれていないが、執務室のドア付近の廊下などは監視対象だ。
「ええ、確認しました。ええと、5時頃にヤン提督は執務室を出られて、エレベーターで1階に降りています。モニターで確認できるのはそこまでなんですが、先程も言ったとおり外部に出た形跡はありません」
 外に出ていないのなら、まだ1階にいるということだ。監視モニターのある警備部は1階にある。また1階は外部の人間の出入りが多く、あまり個室になっている部屋はない。あるとすればトイレぐらいのものだ。
「まさかトイレに籠もっているなんてことは…」
「1階のフロアは薔薇の騎士連隊の夜勤メンバー5人でトイレも含めて探索済みです」
「…そうか、早いな。では外でもフロアでもないとなると…中庭は?」
「はい、残るは中庭だけですので、探索の指示を出したところです」
「なるほど。では俺もユリアンが来たら中庭へ行こう」
「はい!では私は先に行っています!」
 形良く敬礼してリンツは踵を返した。
 この様子なら黒髪の上司はすぐに見付かるだろう。らしくもなく早起きをしたりするから中庭で二度寝でもしているのかもしれない。
 そう考えて微苦笑したシェーンコップは、ヤンの執務室から待機所へと急ぎ足でやって来たユリアンと共にエレベーターで1階へ向かった。
 だがエレベーターが1階に辿り着き、ドアが開いた瞬間、シェーンコップとユリアンは顔色を変えた。
 中庭へ出る出入口からリンツが血相を変えて走ってくる。彼の手には黒いベレー帽が握られている。
 もちろんベレー帽には階級による違いなどないので、それが誰の物であるかなど分かりはしない。だが、現実として今ここに彼らがいるのは、唯一人の人物を捜しているためである。
 彼が無事に見付かったのならベレー帽を握りしめて、血相を変えて走ってくる必要などありはしないのだ。
「准将!ヤン提督の姿はありません!ですが中庭にこれが落ちていました…!」
 周囲の兵士に聞こえないよう声を殺して告げるリンツだったが、ユリアンとシェーンコップの耳には彼の言葉が死刑の宣告のように鮮明に響き渡った。


 

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