「遅くなった。出立の準備は順調か?」 いつもどおり何喰わぬ顔で艦橋に姿を見せた上官に対し、レッケンドルフは複雑な表情を見せながらも敬礼で答える。 「準備は滞りなく進んでおります。…ただ、先程、閣下あてに同盟側から面会の申し入れがありましたが」 「面会?誰とだ?」 「ヤン・ウェンリー提督です」 レッケンドルフの言葉にロイエンタールは珍しく表情を動かした。 軽く柳眉をあげた後、一瞬考え込むように眉根を寄せる。 「…ヤン・ウェンリー本人からの申し入れか?」 「…いえ、要塞防御指揮官のシェーンコップ准将からでしたが?」 昨夜のロイエンタールの側からの面会の申し入れはレッケンドルフが要塞事務監のキャゼルヌに対して行っていた。こういったトップ同士の顔合わせの交渉を行う場合は本人は表に出ないのが常であるにも関わらず、ロイエンタールがそれをわざわざ確認したことに対し、レッケンドルフは何がしかの違和感を感じた。 しかし、副官である自身の立場で言及するのも憚られ、敢えて気付かぬふりをする。 「いかがお返事いたしましょうか?」 「…いや、さすがに今からでは時間的にも余裕はないだろう。それに…申し入れ自体、本当にヤン・ウェンリーの希望かどうかも怪しいものだ」 「……?それはどういう…?」 「いや、いい。その件については再度の要請でもない限り返答はしなくていいだろう」 「は、はあ…」 レッケンドルフは当惑するが、ロイエンタールは話は済んだとばかりに艦外の様子を映し出しているスクリーンに目を向けており、取り付く島がない。 ひとつ溜め息を吐いた後、レッケンドルフはロイエンタールに敬礼してから踵を返し、出航準備項目のチェック作業に戻った。 「…シェーンコップか…いつか何処かで渡り合うことになるかも知れんな」 慌ただしい艦橋ではロイエンタールの囁くような言葉に耳を傾ける者もなく、冷ややかだが楽しげな独白は微笑と共に大気に溶けていった。
「提督、お具合はいかがですか?」 当初の予定通り帝国軍の出航を見送りに宙港へ向かうエスカレーターの途中で、ユリアンがヤンの後ろから声をかける。シェーンコップはヤンの2メートル程先に立っており、リンツと薔薇の騎士連隊の隊員3名がユリアンより後方で司令官の警護に当たっていた。 ヤンはいつもと同じように眠そうな顔で欠伸を噛み殺しながら、エスカレーターに運ばれている。 「ああ…うん、少し眠ったからね、別に気分は悪くないよ。出来ればこのまま夜まで眠っていたいぐらいなんだが、そんなことをしたら要塞事務監兼捕虜交換事務総長に首を絞められそうだからね」 「首を絞められるよりもキャゼルヌ少将にストライキを起こされる方が提督にはダメージが大きそうですけれど」 「…ユリアン、お前まで私を苛めるのはよしてくれ…」 「すみません」 素直に謝りながらもにっこりと笑う被保護者の背後に、自らがユリアンの指導を依頼した者達と同じ黒い尻尾が見えた気がして、ヤンは乾いた笑いをこぼした。 ふと目線を前方に向けると振り返っていたシェーンコップと目が合った。 するとシェーンコップの方が目線を伏せ顔を背けるように前方に向き直る。 「……」 付き合いは浅いが、イゼルローン攻略に始まったシェーンコップや薔薇の騎士連隊との関係はヤンにとっては得難い絆であった。その信頼という名の絆が今、解けかかっている。 ロイエンタールが帝国軍に所属し、自身が同盟軍に所属する以上、例え一介の兵士であっても手を取り合うことは属する国家への叛逆に他ならない。しかも互いに将官として一個艦隊を率いる立場にある二人だ。 シェーンコップにしてみれば許せないのは当然だろうと思う。 「……それでも引き返せないんだ」 「提督、なにかおっしゃいましたか?」 ヤンの呟きにユリアンが首を傾げる。 いいや、と笑って見せてヤンは背筋を伸ばして真っ直ぐに前を向いた。 ヤンの呟きが聞こえたかどうかは分からないが、シェーンコップは振り向かなかった。 だがシェーンコップ自身も今回の出来事によって、これまで気付いていなかった感情に翻弄されているに過ぎなかった。 上官の裏切りとも言える行為を許せないと思ったが、果たして本当にそれだけなのか。 それだけならさっさと期待はずれ、裏切り者の上官として見捨てればよいのだ。 これまでも薔薇の騎士連隊は直属の上司に裏切られたことは多々あり、敵に回して戦い、元上官を自らの手で屠ったこともある。 だが、その時ですらここまで苦い感情を覚えたことはなかった。 「提督、もうすぐ着きますね」 ユリアンがヤンを促す声にシェーンコップも我に返る。 アッテンボローは今は要塞周辺に分艦隊を展開して、帝国軍艦隊の出航に備えていた。ヤンの無事発見の報に対しては唖然としながらも『先輩らしい』と苦笑して見せたが、随分と心配していたことは表情から見て取れた。
宙港に居並ぶ帝国軍艦の中でも一際流麗な印象を受ける旗艦トリスタンの前で、ヤンとロイエンタールは再び顔を合わせることとなった。 「遠路お越しいただき感謝します。どうぞ無事にオーディンへ帰還されるよう願います」 敬礼の姿勢で見送りの挨拶をしたヤンに、ロイエンタールもまた敬礼と首肯を以て返礼する。 何の変哲もない様式的なやり取りであった。 二人の左手にあった指輪はいずれもなくなっている。 二人ともそれは誰に見せるためのものでもなく、互いが知っていればよいだけのものだと理解していた。シェーンコップに見られてしまったことは今さらどうにもならないが、ヤンにとって父の形見であることは決して嘘ではない。 ロイエンタールがヤンの背後に視線を巡らせるとシェーンコップの鋭い眼差しに行き当たる。 その褐色の瞳に浮かぶ色彩の意味をロイエンタールは本人以上に理解していた。 「ヤン提督、いつかまたお会いできれば光栄です」 シェーンコップを見ていた視線をヤンに戻し、ロイエンタールはヤンに握手を求める。 「……そうですね」 ヤンも右手を差し出して握手に答えた。 ロイエンタールの言葉に込められた想いに答えるに相応しい言葉を見付けることは叶わなかったが、この触れた手のぬくもりを忘れることのないようにと心に誓う。 もう一度、敬礼を交わすとロイエンタールはトリスタンへ乗艦し、ヤンはユリアンやシェーンコップらと共に宙港の展望ロビーへと移動した。 整然と発進する帝国軍艦隊の最後の一隻までヤンは黙って見送った。 数時間後には入れ替わりでアッテンボローの分艦隊が入港するだろう。 「やれやれ…随分と長い二日間だった気がするよ」 「そういえば今日はまだ紅茶も召し上がっていませんよね、執務室に戻られたらすぐに煎れます!」 「今日は特別にブランデーを大目に頼むよ」 「…今日だけ特別ですよ?」 溜め息と共にぼやいたヤンだったがユリアンの提案に喜々として注文を付ける。 同盟の未来も自分自身の未来も、考えなくてはならないこともあるし考えても仕方のないこともあるが、今は目の前にある問題から片付けていくしかない。 人間は万能ではないし、どんなに完璧な作戦があってもすべてを思うように動かすことなんて出来はしない。
けれど、そう簡単に諦めたりはしない。
いつか必ず君が待つ明日へと辿り着いてみせる。
どんなに暗い闇の中でも明けない夜はないと信じて。
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