帝国歴488年2月。 捕虜交換式の帝国軍代表としてイゼルローン要塞司令官のヤン・ウェンリーに会うという大役がキルヒアイス上級大将からロイエンタール大将に変更されたのは、ラインハルトの思惑の範疇外であった。 出立の3日前にラインハルトが暴漢に襲撃され、傍にいたキルヒアイスがラインハルトを庇って右腕を負傷したのである。 幸いにも全治2週間程度の怪我ではあったが、ラインハルトを襲った暴漢が誰の手の者か判明しておらず、また捕虜交換式の際に代表が負傷していたのでは同盟軍に侮られると判断したラインハルトがロイエンタールを代役に抜擢したのだった。 そのためキルヒアイス、ミッターマイヤーと共に門閥貴族掃討作戦を立案中であったロイエンタールは急遽イゼルローンへ向けて旅立つこととなった。 「ふん…、まあ稀代のペテン師に会ってみるのも一興だな。」 自分もヤン・ウェンリーに会ってみたかったのに、と親友の抜擢を羨ましがるミッターマイヤーにロイエンタールはいつもと変わらぬ皮肉気な笑みを見せて惑星オーディンを出立した。 ロイエンタールは捕虜交換式自体には大して興味はなかったが、未だ帝国軍の誰もがその実物を見たことがなく、ラインハルトの知略を以てしても完全勝利を収めることのできない同盟軍最大の智将、ヤン・ウェンリーに会うことが出来るという一点のみに於いて、酔えない酒を浴びるように飲んでいたり、戯れに女を抱いているよりは余程有意義に思えた。 ヤン・ウェンリーの姿はデータ上では見たことがあったが、サングラスを付けている画像しかなかったため、黒髪で東洋系だということぐらいしかロイエンタールは知らない。 その風貌が過去の記憶を呼び覚ますほどにはロイエンタールはヤン・ウェンリーに対して興味を持っていなかった。 もし、アスターテ星域会戦においてヤン・ウェンリーの発した艦外通信の音声をロイエンタールが聞いていたなら何某かの気付きはあったかも知れないが。 旗艦トリスタンの私室で革張りのソファに腰掛け、オーディンから持参してきたワインを口にしながら、ロイエンタールはこれから顔を合わせる敵将に思いを馳せていた。 この度の捕虜交換が金髪の獅子の策略の一部だということに、彼の智将は気付いているのだろうか。 例え気付いたとしても一介の軍人でしかないヤン・ウェンリーに捕虜交換を止める手立てがないことはロイエンタールにも分かってはいるのだが、敵の胸中というものにも少しは興味があった。 「ローエングラム候を手こずらせる同盟随一の名将か…」 ロイエンタールはラインハルトの野望を達成するために彼の麾下に付いた。 だが、同時にそれは自分自身の望みを叶えるためでもある。 ラインハルトが帝国を手に入れ、自由惑星同盟を倒し、宇宙を統一する。 「その暁には、どこにいようとも必ずお前を捜し出してみせる…」 壁際に飾られた1枚の絵画のように切り取られた窓から見える宇宙空間をロイエンタールの金銀妖瞳が睨むように凝視する。 そうしながらロイエンタールの指は何かを探るように胸元を彷徨った。 襟をくつろげ、首にかかったプラチナの繊細な鎖を引き出すと、その先には二つの指輪があった。 ひとつは吸い込まれそうな深い輝きを放つ黒い石。 もうひとつは冴え冴えとした輝きを放つ青い石。 指輪自体はプラチナで出来ており、宝石を縁取る土台も細やかな細工が為されていて、手の込んだものと知れる。 「シャオ…1日でも早くお前に逢うために、同盟には早目に滅びてもらう必要がある…」 そのためにはヤン・ウェンリーのような優秀な司令官には存在してもらっては困るのだ。 「だが、まさか暗殺するわけにもいくまいな。」 赤ワインをなみなみと注いだグラスを目の高さにまで持ち上げ、ロイエンタールは冷たく笑った。
ブラスターなど握れるのかと思えるような節の目立たない、男にしては細い指が『ヤン・ウェンリー』の名を鮮やかなインクで綴るのをロイエンタールは目で追った。ふと目線をずらすと、ややクセのある黒髪が一房その白磁を思わせる頬をすべるのが見えた。 「形式というのは必要かもしれませんが、ばかばかしいことでもありますね。」 軍人らしいとはとても言えない柔らかい音色のアルトで話しかけられて、ロイエンタールは自分が敵将を凝視していたことに気付いた。 互いにサインした宣誓書を交換し、握手をして終わるという流れになっていたためヤンはロイエンタールに右手を差し出している。 「ええ…同感です、ヤン提督」 言葉少なくロイエンタールも右手を差し出してヤンの手を握る。 だがそれは不自然に長かった。 そして金銀妖瞳もヤンの顔を凝視したままである。 「ロイエンタール提督…?」 ヤンは司令官、などという呼称に似合わない、あどけないと評しても許されそうな表情でロイエンタールを見上げる。 ロイエンタールは心中では大きく動揺しているのだが、表面上は平然としたものであった。もしも、ロイエンタールの唯一の理解者とも言えるミッターマイヤーがここにいたら、ロイエンタールが平然としているのではなく呆然としているのだということを指摘できたかもしれないが、さすがにそこまで彼を理解できる者は今ここに存在していない。 まさか振り払うわけにもいかず、ヤンはされるがままになっていた。 さすがに周囲の人間たちも訝しんで目を見交わしている。 いくらなんでも、この全宇宙が注目する舞台でヤン・ウェンリーに害をなそうとするなどということはないだろうが、あまりに様子がおかしい。 防御指揮官のシェーンコップなどは微妙に立ち位置を調整して、いつでも飛び出せる態勢を取っていた。 「あの、ロイエンタール提督」 「…失礼、ヤン提督」 さすがにこのままでは、と思ったヤンが勇気を振り絞って呼びかけると同時にロイエンタールもあっさりとヤンの手を離した。 ほっと一息ついてヤンは取り戻した右手を握りしめ、再度ロイエンタールを見ることはなく当初の立ち位置へと戻った。 ヤンを追うロイエンタールの視線に気付いてはいたが、今ここで彼に対して自分が言えることは何もない。 その後は滞りなく式典が終わり、捕虜の名簿との照合や輸送船の乗り込みなどの実務が終わるまでの一両日、帝国軍はイゼルローン要塞へと逗留することになっていた。
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