宵闇に龍は誘う

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 by 朔夏


 
「立て」
 ブラスターをヤンの額に突き付けたまま薄く笑みを浮かべ、短く命令するロイエンタールにヤンは戸惑った。ロイエンタールがヤンをこの場で殺したいなら、ほんの僅か引金に力を込めるだけでそれは終わる。
 躊躇うようにロイエンタールを窺うと、彼は目を細めて冷たく嗤った。
「言ったろう?俺はもうお前の言う言葉は信じないことにした。お前は嘘ばかり言うからな…俺は俺の望むようにするだけだ」
 そう告げると、ブラスターの冷たい銃口をゆっくりとヤンの額から眉間、鼻筋を辿り、唇へと降ろしていく。ヤンの物言いたげに開かれた唇もそうされては何も言うことができない。
 ロイエンタールの意図が分からないままではヤンには為す術がなかった。揺れる瞳でロイエンタールを見ていると、やがて銃口がヤンの顎をぐいと持ち上げた。
「さあ、立つんだ」
 もう一度はっきりと言われて、ヤンは痛みを堪えながら力の入らない足を叱咤し立ち上がった。スラックスを脱がされているため、剥き出しの下肢がロイエンタールの目に映る。
 上半身はシャツと軍服を身に着けたままであるため、シャツの裾を押さえるようにして少しでも下肢を隠そうとするヤンの様子をロイエンタールは面白そうに見やった。
「そのままでは動きにくいだろう…先に服装を整えるんだな」
 自らが剥ぎ取ったヤンのスラックスと下着を床から拾い上げ、ヤンの手に渡す。羞恥に顔を赤く染めて目を逸らし、ロイエンタールの視線から逃れようとするヤンだったが、脱出用の経路でしかないこの通路に隠れられるような場所など初めからありはしなかった。
 薄い笑みを浮かべてヤンの一挙一動を見るロイエンタールに居心地の悪さを感じながらヤンは急いで下着とスラックスを身に着けた。途中、奥まった場所が引き攣れたような痛みと痺れるような感覚を訴えたため小さな声が漏れたが、そんなことに構っていられる余裕はなく、微かに眉を顰めてやり過ごした。
 スカーフは汚れて皺だらけになっているためスラックスのポケットに無造作につっこんだが、それ以外の服装を整えてロイエンタールに向き直る。どうせいつもそんなに服装に構っているわけではないヤンであったので、少々ネクタイが曲がっていようが、シャツがよれていようが気にする理由もない。
 問題はロイエンタールがヤンをどうするつもりなのかがまったく分からないことだった。
 仮にこのまま捕虜として帝国へ連れて行く気だったとしても、彼以外の帝国軍人がそう簡単にそんなことを認めるとは思えない。少なくともローエングラム候には連絡を取るだろうし、そんなことをしている間に同盟側だって異変に気付くだろう。
 ヤンが帝国への亡命を希望していると主張したところで、それを『はい、そうですか』と送り出すような者はイゼルローン要塞には存在しない。
 帝国軍艦隊が寄港している宙港の周辺には、アッテンボローの分艦隊が警備を兼ねて展開しているはずだ。戦闘状態に入れば帝国軍艦隊がイゼルローン要塞を脱出することは容易ではないだろう。
 同盟政府にとっては捕虜交換式が無事に終わることが第一だが、もしロイエンタールがヤンを連れ出そうとしていることが分かれば、政府と軍首脳部はどう判断するか。
 ヤンの意志であろうとなかろうと、ヤンは自由惑星同盟の英雄的シンボルとして祭り上げられている状態だ。そのヤン・ウェンリーが帝国に亡命したり、あるいは捕虜として連行されることなどあってはならない事態のはずだ。
 政府としてもみすみす見逃すわけにはいかないだろう。
 すると、ここイゼルローン要塞自体が戦場と化すことが容易に予測できる。 
 帝国に対する守りの要となっているイゼルローン要塞でそのようなことが起これば、戦闘の結果はともかくとして、今後の同盟の防衛力はますます減退する。
 この後に起こるかもしれないクーデターに備えて、それだけは避けなければならないとヤンは感じていた。
「私を…どうするつもりなんだい?」
 静かな光を浮かべた闇色の瞳がロイエンタールを見つめる。
 そんなヤンを見つめ返すロイエンタールは薄く笑ってはいたが、その細められた両の瞳には例えようのない寂寥が見て取れた。
 ロイエンタールがイゼルローン要塞を訪れて以来、ヤンは過去を隠し通すことに囚われて、彼を真っ直ぐに見ることすら出来ていなかった。
 彼の目を欺くこと、そして自らの心を欺くことに懸命で、ロイエンタール自身がどう思っているのか、どうしたいのかを考えようともしていなかったことに今さらながら気付く。
 そして、つい先程までも自分が考えていたことと言えば自由惑星同盟の、ひいては同盟軍人としてのヤン・ウェンリーの現在そして未来だった。
 酷い仕打ちをしているのは自分の方ではないのか。
「…お前は、俺とは敵同士でしかないと言う。俺の方こそ、お前に聞きたい…。お前は俺を敵として殺すことになっても何とも思わないのか…?」
 ヤンから視線を逸らし、ブラスターを玩ぶようにしてロイエンタールは呟く。
 その横顔には自嘲的な笑みが浮かんでいてヤンをやるせなくさせた。 
 もしかしたらロイエンタールはヤンほど打算的な人間ではないのかもしれないと思う。
 今回の捕虜交換式の代表がロイエンタールに変更されなければ、ヤンと再会することもなく、彼がこのような危険な行動に出ることもなかったのだ。ヤンが考えたような脱出の手法や計画など最初からあるはずもない。
 それどころか、彼自身の立場や生命など顧みてもいないようかのような行動のすべてがロイエンタールの想いそのものだったのではないか。
 それに引き替え、自分はロイエンタールが来ることを知りながら、彼の目を欺き知らぬフリをすることしか考えていなかった。
 それが彼にとって一番よいことだと思えたからだったが、本当は自分のためではなかったのか。
「…じゃあ、私はどうすればよかったんだ…?」
 ヤンの唇から零れた言葉がロイエンタールの視線を引き戻す。
「シャオ…?」
 軽く目を瞠ってロイエンタールは戸惑ったようにヤンに近付いた。
 ヤンの頬を伝う透明な雫が床に音を立てて落ちる。
 子供のような顔で泣くヤンの頬をロイエンタールはブラスターを持たない左手でそっと拭った。 
「…ちがう、こんなのは卑怯だ」
 嫌がるように頭を振ってヤンは優しい手から逃れようとするが、いとも簡単にロイエンタールの腕に捕らえられてしまう。だがロイエンタールが強引だったわけではない。ヤンに本気で逃れるつもりがないことはロイエンタールにも容易に伝わった。
 そのまま背中を撫で上げるように抱き締めると、ヤンはむずがるように首を振り、目を閉じたまま、また涙を零した。
「…なんだ?俺に泣き落としが有効だと思えばいくらでも使えばいい。これもお前の戦術のうちだろう?」
 からかいを含んだ低い囁きと共に唇がヤンの耳朶に落とされる。
「な…っ」
 目を開けて頬を紅潮させたヤンはロイエンタールの胸を押し返そうとしたが、厚い胸板はびくともしない。仕方なくヤンはロイエンタールの胸に額を寄せた。
「…こんな戦術があるわけないだろう。だいたい私は今まで人前で泣いたことなんてないんだからな…」
 嘆息混じりのヤンの言葉を聞いたロイエンタールがうっすらと微笑む。
「そうか…じゃあ、これは俺だけのものだな」
「…なにが?」
「…魔術師の宝石とでも言おうか?」
 そう言うと、ロイエンタールの指がヤンの顎を捕らえて上向かせ、その濡れた頬を唇で啄むように辿っていく。
「…甘くはないな」
「…あっ、当たり前だろう!」
 ロイエンタールの行為がひどく恥ずかしい気がして、ヤンは今度こそ本気で逃げようと試みた。だが、ロイエンタールの金銀妖瞳がヤンを覗き込むように見てきたため、ヤンは再び動けなくなってしまう。
「シャオ…」
 異なる二色の虹彩に絡め取られたように視線を逸らすことができないまま、ヤンは近付いてくるロイエンタールの唇を受け入れた。
 目を閉じればそのまま初めて逢った夏の日に還れるような気がしてくる。
 それが不可能なことだと分かっていながら、心が望んでしまうのを止められない。
 せめて、今この瞬間だけでも二人以外のすべてを忘れてしまえたら。
 ロイエンタールの唇が名残惜しげに離れたその時。
「…きみを愛してる」 
 決して言わないと心に決めた言葉が唇から零れ落ちるのをヤンは止めることが出来なかった。
 
 

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