『愛してる』 そう告げた唇が次の言葉を紡ぐのを待たずにロイエンタールは再びヤンの唇を塞いだ。 羽のように優しく触れてくるロイエンタールの口付けにヤンの閉じた瞼は微かに震えた。 クセのある黒髪を梳くようにロイエンタールの指が触れてきて、その心地よさに笑みが零れる。あの夏も、誕生日が過ぎている自分の方が年上なのに、随分と大人びた顔で自分を子供扱いするロイエンタールによくこうされたものだと思い出す。 確かに自分は子供だった。 『必ず君のところへ帰ってくるから』 不安の色を見せる彼を安心させるために言った言葉は決して嘘ではなかったけれども、結果としては嘘になってしまった。 あの時もしも帝国に残っていたら…そう考えても今さらどうにもならないことは分かっている。だが、あの時の選択が今の現実を構成するのだ。 どうにもならない。 自分の立場も、彼の立場も、今さら棄てたり後戻りしたりできるものではない。 二人が共に在るためには今いる場所を逃げ出すしかない。 例え何もかもに目を閉じて耳を塞いで二人きり逃げ出したとて、どれほどの幸福が得られるだろう。 唯一人以外を切り捨てられるほど強い人間にはなれない。 「…泣くな」 そう言われて、また滑り落ちる温かな雫を啄まれる。 「…泣いてないよ…」 「そうか?」 あきらかな強がりを言うヤンにロイエンタールは口角を上げる。 目を閉じたままでもロイエンタールの笑う気配が伝わって、ヤンは恥ずかしさと憤りでロイエンタールの腕を振り払う。 今度はあっさりとヤンのしたいようにさせて、楽しげに微笑っているロイエンタールをヤンは顔を赤くして睨んだが一向に効果はないようだった。 それどころか笑みを浮かべたままヤンを凝視してくる色違いの瞳に気圧されて後退ると、あっさり背後の隔壁に追い詰められてしまう。 顔が綺麗だと迫力があってコワイ、などと思っていることは気取られたくはないが、ロイエンタール本人は充分にその効果を知っていて利用している気がする。 「…なんだい」 じっとヤンを見たまま無言で笑みを浮かべているロイエンタールに我慢できなくなって、ヤンは不貞腐れたような声で問いかける。 「いや…そう言えば、大事なことを忘れていたと思ってな」 「大事なこと?」 目を丸くして見上げてくるヤンに、ロイエンタールは人の悪そうな笑みを返す。 「そうだ。さっき、お前に指輪を渡しただろう?」 「え…うん」 そう言われてヤンが左手の中指に嵌められた指輪を見るために顔を下げると、ロイエンタールはヤンの耳許で囁いた。 「それは結婚指輪だからな」 「……!?」 勢いよく顔を上げたヤンに頭突きを喰らいそうになるのを見事にかわして、ロイエンタールは薄く笑った。 「というわけで、やはり指輪の交換はきちんとしておかないとな」 「はあ!?」 ますます赤面して狼狽えているヤンをさらに動揺させる発言をあっさりと口にして、ロイエンタールはヤンの手を取って何かを握らせた。 さすがに鈍いヤンでもそれが何か分からないとは言い難かった。 「これを私が君に嵌めるのかい…?」 ヤンの指に光る青い石の指輪と対になる黒い龍のもう一方の瞳を使った黒曜石の指輪を見て、ヤンは溜め息を吐く。 「なんだ、お前からプロポーズしたくせに今さらイヤだと言うのか?」 「プ、プロポーズって…!」 「アレがそれ以外のなんだと言うんだ?16になったら結婚できるはずだったのに、今はもうダメだなどと言われても俺は認めんぞ」 「う…それは…そうだけど…」 「じゃあ、あきらめてさっさとやるんだな」 ずいと目の前に左手を出されて、あきらめ顔でもう一度溜め息を吐くと、ヤンは指輪をロイエンタールの左手の薬指に嵌める。ヤンの時とは違ってサイズがぴったり合っていた。 「これでいいのかい?」 「ああ…そうだな、もうひとつ足りないな」 「まだ何かあるのかい?」 何を言い出すのか戦々恐々といった表情でロイエンタールを窺うヤンを見ていると、もう少し意趣返しをしてやりたくなる。 「やはりここは誓いのキスが必要だろう」 「…は?…もう散々してる気がするんだけど」 「全部、俺からじゃないか。こういうものはプロポーズした方からするべきだとは思わないか?」 明らかに楽しんでいるロイエンタールにヤンは内心憤ったが、確かに15の時に彼にプロポーズしたのは自分で、しかもその後、彼を置いて去ってしまったという事実には間違いないので弱みがあることは否めない。 「分かったよ…」 下を向いて深く長い溜め息を吐くと、ヤンはロイエンタールを見上げた。 「じゃあ目を閉じてくれないか」 ヤンの言葉に小さく笑ってロイエンタールはその印象深い色違いの瞳を瞼で覆う。 目を閉じたロイエンタールを見て、いつか眠っているロイエンタールの頬に口付けたことを思い出す。あの時と変わらず、彫刻のように整ったロイエンタールの美貌に、ヤンは小さく感嘆の溜め息を漏らした。 ロイエンタールの頬に指を這わせて、僅かに背伸びするように唇を合わせる。 『愛してる』 声にならない呟きを唇で伝えるようにそっと触れ合わせ、僅かの間で離れようとするとロイエンタールがヤンの首筋に指輪を嵌めた左手をを這わせて抱き寄せた。 「…んっ…オスカー…っ」 抗議の声を深く合わせた唇で塞いで、柔らかな肉を絡め取る。ヤンの細い顎を右手で捕らえて逃れられないように固定すると、さらに深く口腔を蹂躙する。 息継ぎも儘ならずにヤンが頬を紅潮させてぐったりともたれ掛かってくるまで、ロイエンタールは手を緩めなかった。 肩口に額を押しつけて荒く呼吸をするヤンの項を唇で辿っていると、ヤンが小さな声で『騙したな』と抗議しているのが聞こえた。 「騙すのはお前の専売特許だと思ったら大間違いだ」 鼻で笑ってヤンの抗議を受け流すロイエンタールに、ヤンは腕を突っ張って身体を起こし睨み付ける。 「前から思ってたけど、よく性格悪いって言われるだろう」 「いえいえ、ペテン師と名高いヤン提督には負けますよ」 ヤンの嫌味を平然と笑顔で切って落とすロイエンタールに一瞬唖然として、次の瞬間にはヤンは笑っていた。 「オスカー、君って…意外と面白い人間になったんだね…」 「…そんなことを言うのはお前ともう一人ぐらいしかいないがな」 「…そうか、君のことをよく理解してる人がいるんだね」 「…まあな、ヤツぐらいのものだ。俺と友人付き合いをしようなんて変わったヤツは」 「じゃあ余計に大切にしないといけないね…」 自分に簡単に失えない大切な人たちがいるように、ロイエンタールにも彼を大事に思い、彼からも思われている人たちがいる。 今はまだ交わることのない道を別々に歩き始めてしまった自分たちに出来ることは限られている。 「オスカー…君は帝国に帰るよね…?」 「…ああ、帰らなければならないな…」 「でも私は帝国には行けない…」 「……」 「いつか…いつか、この戦争が終わって、その時にまだ君が望んでくれるなら…」 そんな日がいつやって来るのかは分からない。 それまでにどちらかが、あるいは二人ともがこの世界から消滅してしまうかもしれない。 それでも、もしそんな日が来るとしたら。 「その時は、君と一緒に生きていきたい」 今はこれだけしか約束できないけれど。 「…だめかな?」 柔らかな光を帯びた瞳と暖かな微笑を浮かべてこちらを窺うように見てくるヤンに、ロイエンタールは深く嘆息した。 宇宙の深淵を覗き込むことを恐ろしいと思ったことはないロイエンタールだったが、それよりも深く引き込まれてしまう黒の魔力に絡め取られていることを今さらながら自覚する。 「…お前は相変わらず俺を束縛するのが上手い」 ロイエンタールの言葉に不思議そうな顔をするヤンに苦笑して、ロイエンタールはヤンを抱き寄せた。 「…お前がイヤだと言っても必ず迎えに来てやるから覚悟しておくんだな」 「…うん」 ロイエンタールがヤンの頬に手を添わせて上向かせると、ヤンは静かに目を閉じた。 その時、突然甲高い電子音が鳴り響いた。 『脱出用経路B−002、侵入扉ロックが解除されます。注意してください。』
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