「やあ、心配をかけたね准将」 医務室のベッドに身を起こし、いつもと変わらない茫洋とした表情で笑いかけてくる年下の上官にシェーンコップはぎこちなく笑い返した。 「お加減はいかがですか?」 検査の結果、特に異常がないことは軍医に確認を取り、また許可を受けて入室しているのだが、早朝にヤンが行方を眩ませ、その後無事に発見したものの、シェーンコップはいまだに胸の中に残るしこりのようなものを感じていた。 結局、件の高官用脱出経路にはシェーンコップだけが入った。 何故なら、シェーンコップが脱出経路の梯子を伝い降りるのと同時に自動的に侵入口がスライドして閉鎖されたため、後続のリンツは侵入不可能となってしまったのだ。 もちろんリンツもユリアンに館内通信で連絡を取ったが、一定時間が経過しないと再度の外部からのロック解除は不可能なシステムになっており、先に入ったシェーンコップに任せざるを得ない状況となってしまった。シェーンコップは内部からロックを解除する方法を探すと言って一人で降りて行ったが、すぐにユリアンとの通信に割り込むように、シェーンコップからの通信が飛び込んできた。 ロックを解除するから待機していろと言われて、リンツは内部に入るつもりでいたがその必要はなかった。 再び開いた侵入口の真下には探していた人物を横抱きにしたシェーンコップが立っていた。 「騒ぐな、気を失っているだけだ。外傷はない」 ぐったりとしたヤンの様子に顔色を変えたリンツだったが、その言葉に落ち着きを取り戻し、シェーンコップの指示の下、シェーンコップがヤンを背負って梯子を登れるように固定するためのシートやベルトを取りに行った。 その足でユリアンとキャゼルヌにもヤンの無事を伝える。 キャゼルヌはアッテンボローに通信を入れ、ユリアンは軍医に医務室に待機するよう密かに手配した。 出来るだけ内密に、事が大きくならないように配慮してヤンを医務室に運び込み、軍医の診断を待っている間、皆が緊張した不安な面持ちをしていたが、シェーンコップからは他の3人とは異なる不穏な空気が発せられていた。 気付いたのはリンツだけだったが、その理由は彼にも分からなかった。 ただ、何かに対してひどく憤っているように感じられた。 これまで、それなりの時間を上官と部下として生死の狭間で過ごしてきたが、シェーンコップがこれまで自分達にも見せなかった数々の表情を、ただ一人の人間が顕わにさせることにリンツは驚嘆する。 それをシェーンコップ自身が、そしてその原因の黒髪の司令官が自覚しているのかどうか分からないが、どちらにしてもシェーンコップを上官として尊敬する気持ちが揺らぐわけではない。 老齢に差し掛かる頃であろう軍医が医務室のドアを開けて顔を見せると、全員の視線が集まった。 「ヤン司令官には特に異常はありません。手首を少々痛めておられますが、今は目を覚まされましたので、面会は可能です」 軍医にはヤンが行方不明であったことは告げず、司令官執務室で倒れたことにしてあるが、外傷がないことは既にシェーンコップが確認していたので、脳波や脈拍、呼吸など内科的な診察を頼んでいた。 それも異常がないのであれば特に心配する必要もないだろうと、キャゼルヌとユリアンは笑顔で会話している。 リンツはヤンが無事なら先に薔薇の騎士連隊の待機所へ戻ってくるとシェーンコップに伝え、この場を後にした。 「准将は面会されないんですか?」 キャゼルヌとユリアンの二人が医務室に入ろうとしたが、シェーンコップは向かいの壁際で腕を組んで立ったまま動こうとしなかった。 「…ああ、ちょっと急ぎの用を思い出した。すぐに戻るから先に司令官殿のご機嫌伺いをしておいてくれ」 小首を傾げて尋ねてくるユリアンに、笑みを浮かべてそう告げるとシェーンコップはさっさと立ち去った。残された二人は顔を見合わせて、もう一度シェーンコップの後ろ姿を見送ったが、時計は7時30分を過ぎようとしている。 今日のスケジュールの変更などについてもヤンと協議する必要がある。本来なら要塞防御指揮官であるシェーンコップにも同席してもらった方が都合がよかったのだが、そろそろ大半の人間が出勤してくる時間であり、シェーンコップを待っていてはとても時間が足りそうにないと判断し、先に医務室に入ることにした。 「提督、大丈夫ですか?」 念のため、とのことで栄養剤入りの点滴を注入されているためベッドに横たわったままのヤンであったが、顔色も悪くはなく、二人を見て点滴の刺さっていない側の手で頭を掻いてみせる。 「いやあ、随分と心配を掛けてしまったようで悪かったねユリアン。それにキャゼルヌ先輩もお忙しいのにすみません」 「提督!そんなことありません!」 「…本っ当にな!この貸しは近いうちに10倍の休暇で返してもらうつもりだから覚悟しろよ!」 いつもどおりの緊張感のない笑顔で謝るヤンにユリアンはほっとして目尻に浮かんだ涙を拭った。キャゼルヌの方はと言えば、安心した分、怒りが沸いてきたらしく額に青筋が立っている。 「先輩、そんな無体なことを言わないでくださいよ。これは不可抗力であって私のせいじゃないんですから」 焦って弁解するヤンに、二人は再び顔を見合わせた。 「そういえば結局、なんでこんな事になったんだ?」 キャゼルヌの質問にヤンは手短に答えた。 つまり、朝早く目を覚ましてしまったので暇を持て余して中庭に散歩に出たら、何故か開いていた脱出口にうっかり落ちてしまった。落ちた拍子に手首を痛めてしまい、他にも腰や足にあちこち痛みはあるし、閉まってしまった扉のロックの解除の方法も分からず、おまけに寝不足だったので寝てしまった、とのことである。 「…お前は…一体なんのために非常発信装置を持っているんだ!?」 「それが、落ちた時にどこかに行ってしまって見付からなかったんですよね」 実際、ヤンの胸ポケットに入っていた非常発信装置は脱出経路の通路の隅っこに落ちていて、探す気が大いにあれば見付かっただろうが…という状態だったとはシェーンコップの説明だった。 「探せ!死ぬ気で探せ!」 「まあまあ、キャゼルヌ先輩。あんまり怒ると血圧があがりますよ?」 「誰のせいだ!貴様!」 「はあ…だから謝ってるのになあ…」 くしゃくしゃと髪を掻き混ぜて、困った表情を見せるヤンにキャゼルヌは深い溜め息で答えた。そして、目を丸くして見ているユリアンに向き直る。 「ユリアン、俺は今日のスケジュールの変更は一切認めんぞ!こいつにそんな必要はない!」 「ええっ!でも、提督のお身体が…」 「どこに!そんな心配が必要なんだ!こいつはいたって健康だぞ!こっちの方が寝不足だろうが!」 「まあまあ、ユリアン。先輩のおっしゃるとおり私は平気だよ。まあちょっと手首を挫いているけど大したことはないし」 そう言って手を振って見せるヤンの笑顔を見てユリアンも心配そうな表情をしながら肯いた。 ヤンの手首には包帯が巻かれていて、脱出口に落ちた際に挫いたというのはヤンの運動神経から考えると納得できた。 「それじゃ、取り敢えず点滴が終わるまではゆっくりなさってください。僕はそろそろフレデリカさんが出勤されるので説明してきます」 「頼むよユリアン」 まったく、と眉根を寄せて呟くキャゼルヌがふとヤンの首元に目をやる。 「ヤン、スカーフはしていなかったのか?」 何気ないひと言だったが、ヤンの表情が微かに強張ったのをキャゼルヌは見逃さなかった。 「…ええと、どうだったかな…ユリアン、一応探してみてくれるかい?なかったら新しいものを支給してもらっておくれ」 「はい、提督。それじゃ、僕は執務室の方へ行ってきますね!」 明るい表情で医務室を出て行くユリアンを見送ってキャゼルヌはヤンを振り返った。 「…支給品もタダじゃないぞ」 「はあ…すみません。何処にやったか思い出せなくて」 「…さっきの説明は本当なんだろうな?」 中庭に落ちていたというベレー帽がベッド脇のキャビネットの上に置かれている。 そちらに一度視線をやって、キャゼルヌは横たわるヤンをじっと見つめた。 ヤンもキャゼルヌを見ている。 ヤンの深い黒の双眸に見つめられて、キャゼルヌは言いしれぬ不安と焦燥が沸き起こるのを感じた。 今まで見ていたヤンが違う人間だったような気がしてきて、そんなことを考えている自分自身さえも信じられなくなってくる。 視線の交錯はヤンの瞼が下ろされたことによって遮られた。 「…先輩、なんだかすごく眠くなってきたんですけど…ついでに寝てもいいですか?」 先程までなら『ふざけるな』と言ってやりたい心境だったが、今のキャゼルヌはどちらかと言えばヤンの視線から逃れたことに安堵を覚えていた。 「ああ、帝国軍の出発の準備が整ったら連絡が入るから、それまでは寝ていていいぞ。どうせお前さんは平時には何の役にも立たないからな」 「おっしゃるとおりですから、お言葉に甘えますよ」 欠伸を噛み殺しながらキャゼルヌの皮肉を受け流して、薄い毛布をかぶり直し、ヤンはキャゼルヌに背を向けるように姿勢を変えた。 「……」 何かを言いかけて、口を噤んだキャゼルヌはヤンのクセのある黒髪をやや乱暴に掻き混ぜると大きく溜め息を吐いた。 「20倍の長期休暇を申請するからな!」 「…無理…」 寝言のように小さく言い返したヤンに苦笑して、キャゼルヌは医務室を出て行った。 残されたヤンは閉じていた目をそっと開ける。 自分を大切に思ってくれる人達が自分とロイエンタールの関係を知った時、どんなに傷付くだろうと考えると心臓が締め上げられるように苦しい。 それでも彼を諦めることが出来なかった自身の浅ましさがひどく醜く思えて、ヤンは点滴の針が刺さった左手の手首を逆の手で強く握りしめた。
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