「ロイエンタール艦隊から連絡はないのか?」
新無憂宮のラインハルトの執務室に出入りする高官たちは皇帝の不機嫌も顕わな声と態度に辟易していた。
1時間おきに同じ質問を繰り返されて正直うんざりしていたが、かと言ってそれを態度に出すわけにもいかない。ハイネセンを出立する際に連絡が入ってからまだ1日も経過していない。何事もなければ1日ごとの定時連絡ぐらいしか寄越さないに決まっているだろうに、と誰しも心の中で嘆息していた。
「皇帝陛下、ヤンヤン様のご滞在予定のホテルについてですが……」
執務室の中を歩き回るのに飽きたのか窓の外をじっと見ているラインハルトの背中に皇帝即位式典の総括を執っている宮内尚書が恐々と用件を切り出す。するとラインハルトは蒼氷色の瞳を見開いて振り向いた。
「ヤンヤンだと!?何か連絡があったのか!?」
その勢いと瞳の鋭さに怯みつつも宮内尚書は表情をなるべく平静に保った。
「いえ、そうではありませんが、到着後のヤンヤン様のご滞在先についてですね」
「それなら、もう、オーディンで最高級のホテルに決定しているではないか、何が言いたいのだ」
「……ええ、それはそのとおりでございますが、何しろ式典の出席者は星の数ほどおりますので、ホテルの宿泊希望者も溢れんばかりです。ところが、ヤンヤン様のご滞在先では警護のためにワンフロアは完全貸切状態となりますので、それだけ宿泊可能な部屋数が減ります」
「それを快く思わない輩が存在するというわけか?」
この世のものとは思えない美貌を誇る主の発する地を這うような声と細められた眼差しの冷ややかさに宮内尚書は自らの立場を呪った。魂が抜けていきそうな恐怖と格闘しつつ、ひとつ咳払いをして続ける。
「え、ええ、まあ、その、皇帝陛下御自らのご希望での招待とはいえ、一介の芸能者に対して優遇しすぎではないか……と……」
だんだんと声が小さくなってしまったのは、決して宮内尚書の胆力が人より劣っていたからではない。ラインハルトの憤怒の表情が視線だけで人を射殺せそうな殺気を孕んでいたからだった。
血の気のない顔をして固まっている宮内尚書にラインハルトは(表面上は)穏やかに笑いかけた。
「そうか、では余に良い考えがあるぞ。これならホテルが確保できない輩たちにも文句はあるまい」
「えっ……何かご名案がおありなので?それは一体……」
ほっと気が抜けて流れ出した冷や汗を拭いつつ、宮内尚書は訊ねた。
「……うむ、それは……」
「それは……?」
腕を組み、顎に手をやってラインハルトは視線を細めて彼方を眺めやっている。緊張感に生唾を飲み込んで、宮内尚書はラインハルトの答えを待った。
「それはだな……」
瞳を伏せたラインハルトの一言一句も聞き逃さないように宮内尚書は一歩前に出ながらラインハルトの優美な唇を見つめた。
その唇が優雅に音を紡ぐ。
「……まだ、教えぬ」
宮内尚書の常は厳めしい表情があんぐりと口を開けたまま動きを停止した。
それを見てラインハルトは口角を上げて笑った。
「心配せずともヤンヤンの滞在場所の件は余にまかせるがいい。ホテルの方はキャンセルして構わぬ」
「は、はあ……」
そう言われては宮内尚書に是非はない。ハンカチで汗を拭いながら腑に落ちぬ表情で宮内尚書は皇帝の執務室を後にした。
「オーディンよりロイエンタール元帥あてに超高速通信が入っています」
通信オペレータの報告にベルゲングリューンは微かに目を瞠った。 ハイネセンを出立して8時間が経過していたが、まだイゼルローン回廊にも到達しておらず、オーディンは遙か彼方だ。 こんな状態のロイエンタール艦隊に超高速通信とは、まさかオーディンで非常事態でも起きたか。あるいはハイネセンで旧叛乱軍が一斉蜂起でもしたか。 何にしてもロイエンタールは現在、アイドルのヤンヤンと晩餐中である。彼女の身の回りには旧叛乱軍の士官が付いている。下手に感づかれてはまずいだろう。 そう判断してベルゲングリューンはオペレータに通信をベルゲングリューンの執務室へ回すよう指示して足早に向かった。 「……ロイエンタールは何をしているのだ?」 ロイエンタールへの通信とは言え、まさか皇帝自らがスクリーンに姿を現すとは思っていなかったベルゲングリューンは驚いて硬直した。 「どうしたベルゲングリューン?余の顔を見忘れでもしたのか?」 皇帝の表情が苛立ちを見せる。ベルゲングリューンは気を取り直して敬礼した。 「はっ、申し訳ありません。ロイエンタール元帥は只今、フロイライン・ヤンヤンと会食の最中でして……」 「……ヤンヤンと……会食だと?」 ベルゲングリューンの目にはラインハルトの背後に暗雲が立ちこめたように見えた。 「は、はい……そのようですが」 「まさかとは思うが……二人きりで、とは申さぬな?」 遠雷のごとく鳴り響くのはベルゲングリューン自らの心臓の鼓動か。 「……その、給仕はおりますが……」 その瞬間のラインハルトの眼差しは神話に聞くメデューサもかくや、と後にベルゲングリューンは思った。 まさに目からビーム。目から雷。 ベルゲングリューンは蒼白な顔で床に縫いつけられたままラインハルトの怒気に心臓を射抜かれた。 「今すぐ!ロイエンタールをそこに呼んでまいれ!」 「は、はっ!今すぐ呼んで参ります!!!」 「30秒以内だ!30、29、28、27……」 子どもではあるまいに、と皇帝に言えるのは軍務尚書ぐらいのものだろう。 ベルゲングリューンは獅子に追われる兎のごとくトリスタン艦内を爆走した。
じっとりと背中を伝う汗に我に返ったヤンは喉の渇きを感じた。心の中で叫んでいたアッテンボローへの罵詈雑言もそろそろネタ切れだったが、問題は何一つ解決していない。
顔色を悪くしているヤンだったが、ロイエンタールは何を考えているのか、ワイングラスを揺らして中で踊る赤い水をじっと見て笑んでいる。 ヤンは自らに落ち着くように言い聞かせて、策を練った。 さっきのロイエンタールの呼び掛けに対する返事は聞き間違いですむ。まだヤン・ウェンリーとヤンヤンが同一人物だと肯定したわけではない。できる。否定できる。というより否定しなくてはいけない。このままではヤン・ウェンリーは女装好きの変態だと全宇宙に暴露されてしまう。 英雄でなくてもいい。女装アイドルなんてごめんだ。それでも、変態と言われるよりはマシだ。 ヤンは決意の眼差しでロイエンタールを見つめた。 気配を感じたのかロイエンタールも顔を上げて、その二色の瞳でヤンを見つめる。 「ロイエンタール元帥」 ヤンの呼び掛けにロイエンタールが薄い唇の端を持ち上げて笑った。 ヤンがピンクの口紅に彩られた艶のある唇を開こうとする。 その時、ノックの音と共に扉が開いた。 「ロ、ロイエンタール提督!今すぐ執務室へおいでください!」 引き攣った顔で飛び込んできたのはベルゲングリューンだった。息を切らせている様子にロイエンタールも柳眉を上げる。 「どうした?ベルゲングリューン」
「どうもこうもありません!い!ま!す!ぐ!おいでください!!!」 いつにない強引な態度のベルゲングリューンにロイエンタールも不穏な空気を感じたのか表情を引き締めた。 唖然とするヤンを振り返って、意味ありげな微笑を見せる。 「失礼、フロイライン・ヤンヤン。残りの食事は申し訳ないがお一人ですませてください。この続きは明日にでも」 「は、はあ」
とりあえずは助かったと言うべきなのか、ベルゲングリューンに腕を取られて去っていくロイエンタールをヤンは呆然と見送った。
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