〜Dive Into Your Body〜中編

by.朔夏



「閣下?どうかされましたか?」
 目の前を横切るヒラヒラとした物体に、ヤンは異世界に羽ばたいていた意識を取り戻した。
 そうして左上方から声をかけてきたシェーンコップの顔をきっちり5秒間見つめた後、再び顔を正面に向けると、それは盛大に溜め息を吐いた。
「……はああああああ〜」
 最低最悪な展開になってしまったことをシェーンコップは勿論、アッテンボローも知らないだろう。
 だが断じて自分は大したミスはしていない!とヤンは心の中で拳を握っていた。
「ロイエンタール元帥は如何されたので?」
 そんなヤンの心中を察することもなく、シェーンコップが尋ねてくる。
 確かに会食の席を途中で立つというからには、それ相応の理由がなくては失礼と言うものだ。
「……知らない」
 理由はヤンも聞いていない。ただ、副官のベルゲングリューンがあそこまで強引に上官を連れ去るぐらいであるから、かなり緊急を要する重大な事案なのかも知れない。
「ほう、それはレディに対して随分な態度ですな……で?閣下は如何されるのですか?」
「レディはどうでもいいよ。……私が何をどうするって?」
「いえ、給仕の少年兵がさっきからドアの外で困っているのですよ。『フロイラインに残りの料理を出してよいか聞きたいのだが返事をしてくださらない、これはロイエンタール元帥の仕打ちにショックを受けておられるのでは』……とね」
「えっ?」
 そこで初めてヤンは自分が食事の途中だったことを思い出した。メインディッシュのローストビーフを心から楽しみにしていたのに、ロイエンタールの発言のせいですっかり忘れてしまっていたではないか。
「……私のローストビーフ……」
 ぼそりと恨みがましい声で呟くヤンだったが、もう食欲が湧いてるような状態ではなかった。どちらかと言えば胃薬でも貰いたい気分だ。
「で、閣下は……いえ、フロイライン・ヤンヤンとしては色男に置き去りにされた気分は如何です?」
 半ば笑いながら訊いてくるシェーンコップをヤンはきっちりと睨み付ける。
「シェーンコップ……きみは私の危機がそんなに楽しいのかい?」
 部屋の外にいたシェーンコップには中でどんなやりとりが行われていたか知る術などないことは百も承知だが、八つ当たりと分かっていても不機嫌な表情を和らげる配慮などできないヤンだった。
 ヤンの言葉を聞いてシェーンコップは片眉を上げてみせる。
「危機?と言いますと、まさか……」
「そうだよ!本当にどうしようかと肝が冷えたよ!」
 ヤンはてっきり自分の言いたいことがシェーンコップに伝わったと思って思いきり肯定した。
「そうですか……ではロイエンタール元帥が急に呼び出されたために助かったのですね」
「そうなんだよ……ああ、もう、どうしたらいいんだろう……!」
「閣下!」
 シェーンコップが突然ヤンの両肩を大きな手でがっしりと掴んだ。
「ななな、なんだいシェーンコップ!」
 妙に真剣な表情で(いや、事案としては真剣に対応すべきだが)ヤンの顔をじっと覗き込んでくるシェーンコップにヤンは眼を瞬かせた。
「……ロイエンタール元帥にはどこまでされたんですか?」 
「……?」
 ヤンはシェーンコップの質問の意味が分からず目を見開いたまま沈黙した。だが、その沈黙をシェーンコップは曲解した。
「まさか、口では言えないようなことをされたのですか!?」
「え……っと?」
 口では言えないようなことってなんのことだろう?とヤンは非常時に於いてのみ大活躍する頭脳をフル回転させてみた。
 だが、どうにもシェーンコップの言いたいことが理解出来ない。
 しかも、なんだかシェーンコップの鋭い視線がヤンの顔以外の部分をチェックしている気がする。
「その……シェーンコップ?きみ、何か勘違いしていないかい?」
「口で言えないとおっしゃるなら、私の目で確認させていただきます!」
 そう、宣言するとシェーンコップはいきなり足元にしゃがみこみ、椅子に腰掛けたヤンのドレスの裾に手を掛けた。
「ええっ!?」
 運動神経と名の付くものと縁遠いヤンにはシェーンコップの行動に異を唱える暇もない程の素早さだった。だが、世の中には『偶然』というものは確かに存在するのだ。
「ぐっ!」
「痛っ!」
 前者の呻き声がシェーンコップ、次の『痛い』がヤンだった。
 驚きのあまり、本能のままに動いたヤンの膝頭が見事にシェーンコップの顎にヒットしたのだ。
「あいたた〜……大丈夫かい?シェーンコップ……」
 ヤンは膝をさすりながら、顎を押さえて無言で床と向き合っているシェーンコップに訊ねた。普段の鍛え方で比較すればシェーンコップには大した打撃でもないだろうと思うのだが、シェーンコップはなかなか顔を上げない。
「シェーンコップ?……そんなに痛かったのかい?」
 さすがに心配になってヤンは席を立つと蹲るシェーンコップの肩に手を掛けた。ヤンの手が触れると、シェーンコップは微かに身体を揺らす。
「……を……」
「え?なんだって?」
 ボソリと呟かれたシェーンコップの言葉が聞こえなくて、ヤンは床に膝を付いてシェーンコップの顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい?シェーンコップ」
「大丈夫ではありませんよ、閣下……」
 顔は上げないまま、シェーンコップの手がヤンの両腕を掴んだ。
「シェーンコップ……そんなに痛いのかい?悪かったね」
 シェーンコップほどの男がここまで痛がるとは余程当たり所が悪かったに違いない、と思ったヤンは帝国軍の戦艦内ではあるが背に腹は替えられないと軍医を頼むために目で呼び鈴を探した。
 ようやくそれらしきものが視界に入ったが、シェーンコップに腕を掴まれているために立ち上がることができない。
「シェーンコップ、ちょっとだけ手を離してくれないか?軍医に来てもらおう」
 ヤンがそう言ってもシェーンコップは手を離さない。
「……軍医は必要ありません」
 下を向いたままのシェーンコップではあったが、はっきりとした声でヤンに告げる。
「そうかい?それならいいけど」
 いくらかほっとして、ヤンは立ち上がろうとしていた身体の力を抜いた。だが、それを見越したかのようにヤンの腕を掴んだシェーンコップの手に力が入った。
「私に必要なのはあなたですから」
 その瞬間、ヤンは天地が回ったのを視認した……と言うよりは目を見開いたまま、なんの対処も出来ずに一回転したに過ぎない。
 さっきまで床が見えていた瞳に、今は天井から吊り下がった豪奢なシャンデリアが映っている。
「え、え〜と……?」
 頭を打ったりはしていない。それは決してヤンが奇跡的に受け身を取ったというわけではなく、物理的にヤンの後頭部をしっかりとカバーしているものがあるからだ。
「いくら漁色家のロイエンタール元帥とは言え、皇帝陛下の賓客であるあなたに手を出すなんて恐れ入りますね」
 がっしりとヤンの後頭部を掴んでいるのはシェーンコップの大きな掌で、もう一方の手は何故かヤンのウェストに回されている。そして、天井のシャンデリアも見えなくなるほどに近付いてくるシェーンコップの整った容貌にヤンは呆然と見入った。
「こんなことなら私もさっさと手を出しておくべきでしたよ」
 どこかやるせないような表情で言われて、ヤンは自分が何か酷いことをしたような気分になった。
 だが、具体的に何かしたかと言われると膝蹴りぐらいしか思い浮かばない。
『やはり色男の顔を蹴ったのは故意ではなくてもヒドイのだろうか……』
 内心ちょっと反省したヤンだったが、そもそも原因を作ったのはドレスを捲ろうとしたシェーンコップの方だということに気付いて、シェーンコップの言いがかりの理不尽さに眉根を寄せた。
 これはひとこと言ってやらねばなるまいと思い、ヤンは目前に迫ったシェーンコップをキッと睨んで息を吸い込んだ。
「言ってごらんなさい……ロイエンタール元帥にどんな不埒なコトをされたんです?」
「きみが変なことをするから悪いんじゃないか」
「………」
「………」
 ほぼ同時に互いが言った台詞を二人は数秒間無言で反芻した。
 泳いだ視線が互いに戻ると同時に、二人が揃って口を開く。
「不埒ってなんのことだい?」
「変なこととは心外ですね、私はまだ何もさせてもらってませんよ」
「………」
「………」
 再び二人は沈黙した。
 どう考えてもシェーンコップの言いたいことはヤンには理解不能だった。どうにも齟齬があると思えて仕方ない。
「……ちょっと確認するけど、きみは私が言った『危機』が何か分かっているんだよね?」
 ヤンの質問をシェーンコップは鼻で笑った。
「分からないわけがないでしょう?だから訊いてるじゃないですか……ロイエンタール元帥があなたにどんな不埒な真似をしたのか、とね」
 ヤンは今度こそ目を見開いて絶句した。いったい何をどうすればそんな思考回路になるのだ。
 ロイエンタールにヤン・ウェンリーではないかと言われた時には目の前が真っ暗になる気分だったが、今は頭の中が真っ白になるという状態を初めて体験していた。
「さあ、もういいでしょう?何をされたのか教えてください、閣下」
 そう囁いたシェーンコップの手がヤンの腰から頬に移動する。
「ロイエンタール元帥のことなど忘れさせてあげますよ」
 シェーンコップの顔が視界一杯に近付いてくる。ヤンは別世界に行きかけていた意識を取り戻して目を瞠ったが、既に避けようもない距離だった。
 あと数センチメートルの位置にあるシェーンコップの灰褐色の瞳が映し出すヤンヤンの姿を見ることが何故か苦痛で、ヤンは強く目を閉じた。



「不埒なのはテメエだ!!!」
「ぐはっ!!!」
「痛っ!!!」
 後頭部を支えていたシェーンコップの手が急に離れて、ヤンは床で頭を打った。大した距離ではなかったのが幸いだったが、結構痛かった。
「……アッテンボロー?」
 後頭部をさすりながら身体を起こして見ると、壁に顔からぶつかっているシェーンコップと、シェーンコップの背中を足蹴にしているアッテンボローがいた。
「先輩、大丈夫ですか!?」
「いや、私は大丈夫だけど……アッテンボロー、シェーンコップの顔が……」
 ヤンは床に座り込んだまま、唖然とした表情でシェーンコップを指さす。
「こんなヤツの顔なんて心配してやる義理なんざありませんよ、先輩!分かってますか?今、あなたは貞操の危機だったんですよ!?」
「テイソウの危機……?」
 アッテンボローの言った単語がヤンの中で意味を成すまでには数秒の時を要した。
「ああ!『貞操』か!……って、なんで私がシェーンコップ相手に貞操の危機に陥る必要があるんだ!いくら私が女装しているとは言え、私は間違いなく男だよ!ロイエンタール元帥のことと言い、きみたちは頭に何か湧いてるんじゃないか!?」
 二人の言っていることを正確に理解したヤンの怒りはすさまじかった。
 アッテンボローもシェーンコップも付き合いの長短はあれど、後にも先にもヤンがここまで怒ったのを見たことはない。
「もういい!オーディンに着くまで私は一人で行動するからね!きみたちも好きにするといい!」
 そう捨て台詞を残し、ヤンはドレスの裾を翻して部屋を後にした。
「怒らせたな……」
「誰のせいだよ」
 とにもかくにもヤンが最大限に怒っていることは間違いなかった。オーディンに着くまでと言っても今日明日のことではない。
「そう言えば結局のところ『危機』とは何だったんだ……?」


「まったく!まったく!あいつらは何を考えているんだ!誰が貞操の危機だ!」
 ヤンは怒りの余り、重大な事実を二人に告げていないことをすっかり忘れたまま部屋に戻ってドレスを脱ぐと、高級な羽毛を使ってあると思われる寝心地のよいベッドに飛び込んで悪態を吐きながら眠りに就いたのだった。

 

     

「銀河アイドル伝説TOP」へ

「銀河アイドル伝説8前編」へ

「銀河アイドル伝説8後編」へ

NOVELS TOP