「はあ〜〜〜〜〜っ……」
本日28回目の盛大な溜め息を吐く黒髪の可憐な美少女をロイエンタール艦隊旗艦トリスタンに勤務する下級兵士は夢見るような表情で見守っていた。
何を隠そう、この一兵士の枕元には目の前に存在する『新世紀☆アイドル・ヤンヤン』の生写真(オークション落札価格800帝国マルク也)が常に飾られているのだ。
国賓であるフロイライン・ヤンヤンの本日の警護の役目も割り当てられた兵士から100帝国マルクで買い取った特権である。それはもう食い入るように彼女の一挙一動から視線を逸らさないでいた。
それにしても今日のヤンヤンは憂鬱そうだった。噂によると一昨日の夜はロイエンタール元帥との会食であったが、その最中にオーディンより超高速通信が入電し、途中でお開きになったと言うことだ。
それ以来、ロイエンタール元帥とヤンヤンは顔を合わせておらず、それに呼応するかのようにヤンヤンの機嫌は芳しくないという。
(はっ!まさかヤンヤンはロイエンタール元帥のことを……!?)
兵士は自らの考えにショックを受けた。しかし、帝国兵士たる者、その挙動に一分の隙も見せてはならない!そう思って、外見は真剣な表情で背筋を伸ばして立っていた。
(それにしてもヤンヤンがこんなに近くにいるなんて俺は果報者だ!いつもの優しげな柔らかな微笑も可愛らしいが、今日のような憂いを帯びた寂しげな表情も麗しい……!)
兵士の目には特殊なフィルターが幾重にもかかっているのかもしれないが、彼自身は真剣にそう思っているのだ。
ヤンヤンの優雅な指先がティーカップの縁をひと撫でした後、カップを持ち上げて唇へ寄せる。ピンク色の艶を帯びた唇がカップの縁へと触れた。
(ああ!俺は今すぐにあのカップになりたい!!!)
兵士の目は爛々と輝き、ヤンヤンの唇に釘付けとなっていた。
だが、そのせいで背後の扉から入室してきた人物にまったく気付かなかったのは痛恨のミスだった。
「役に立たぬ警備兵だな」
「……っ!?」
至近距離から発された蔑みを含んだ声に驚愕の表情で振り返ろうとするが、その前に彼の天使が艶やかな笑顔でこちらを見て、死刑宣告を下した。
「あら、ロイエンタール元帥」
「……!」
兵士の顔は一瞬で死人のように青褪めた。
彼自身、ロイエンタール艦隊の一員には間違いないが、身分的にロイエンタールと直接に会うことなどこれまでなかったのだ。それなのによりによってヤンヤンに見とれていてロイエンタールの来室に気付かないとは。
「……っ!申し訳ありません!失礼いたしました!」
今さら遅いかも知れないが、最敬礼でロイエンタールに謝罪する。
彼のような平民出身で何の後ろ盾もない下級兵士は、貴族の気分次第で一瞬先はどうなるか分からない。ロイエンタールがどうこうと言うわけではなく、それが帝国軍での常識だった。
強く目を瞑ったまま最敬礼を崩さず兵士はロイエンタールの反応を待った。
しかし、司令官の言葉よりも先に聞こえたのは黒髪の天使の声だった。
「ロイエンタール元帥、私に何か御用がおありなのではないですか?」
「……フロイライン・ヤンヤン……ええ、まあ……」
珍しく言い淀むロイエンタールが隣に立つ警備兵を見やった。その視線に射抜かれたように兵士は硬直した身体を揺らす。ロイエンタールの左右の色の異なる瞳にじっとりと見られるとそれだけで冷や汗が流れてくるようだった。
無言で兵士を見ていたロイエンタールの瞳が伏せられ、次の瞬間には兵士から逸らされた。視線の向かう方向はソファでくつろいだ姿勢を変えようともしないヤンヤンだった。
「……俺が呼ぶまで扉の外で警備を続けろ」
「は、はひっ……!」
声が裏返ったのが自分でも分かったが、咎めがなかっただけでも有り難いことだった。兵士はもう一度頭を下げると脱兎の如く部屋から飛び出していった。
「……っ、は、ああああ〜〜〜〜っ!」
やや大きな音を立てて閉まった扉を背に、下級兵士は詰めていた息を盛大に吐いた。
心臓が口から出そうになるとはこういう状態なのだろうと納得する。
やはり至近距離で見る帝国軍の双璧の片割れ、オスカー・フォン・ロイエンタール元帥は下々の者にとっては畏怖の対象だった。だが、それに気後れする様子の欠片もないアイドル☆ヤンヤンは、やはりただ者ではない!と兵士は拳を握りしめて感動した。
「えっ……でも……、ということは……今この部屋の中で……ヤンヤンは『あの』ロイエンタール元帥と二人っきりってことに……?」
兵士の顔色は青くなったり赤くなったり忙しかった。
「ま、まさか!でも、いくらロイエンタール元帥でも、皇帝の賓客に何かしたりしないよな……?」
ヤンヤンのファンとしてはヤンヤンの関係者に教えた方がいいのだろうか?しかし、司令官であるロイエンタールに『扉の外で警護しろ』と言われた以上、ここから動いては今度こそどんな目に遭わされるか分からない。
「ど、どうしたらいいんだ!?」
こんな時こそいつもヤンヤンの傍にベッタリくっついていて目障りな、あのボディーガードの男がいればいいのに!まったく役に立たないヤツだな!!!と兵士は先程の自分の失態は棚に上げ、心の中でシェーンコップを罵倒するのだった。
「それで?一昨日の夜の続きですか?」
ロイエンタールの感情の読みとれない表情をソファから見上げながらヤンは訊ねた。
アイドルのヤンヤンとしてくつろいでいるのだからヤンである時ほど行儀が悪いわけではないが、少なくとも畏まっているとは言い難い。そんな姿勢を改めるつもりもないのか挑戦的とも取れる態度で自分に微笑みかけるヤンヤンをロイエンタールは不快だとは思っていなかった。
そうでなくては面白くない、というのがロイエンタールの本音だ。
「その件は残念ながらオーディンに到着するまで棚上げのようですよ」
口元だけで笑って言うロイエンタールにヤンは驚いた視線を向けた。
ロイエンタールの来訪の理由は間違いなく先日の会食で指摘された『ヤンヤンがヤン・ウェンリーではないか』という疑惑をはっきりさせるためだと思っていたのだ。
「オーディンに……?それは、閣下が先日の会食の途中で席を立ってしまわれた事と関係があるのでしょうか?」
探るような視線でヤンはロイエンタールを見る。それを受け止めるロイエンタールは何処か楽しげだった。
「なかなか鋭いご指摘です、フロイライン。さるお方からのご命令で私はオーディンに到着するまで、あなたの半径10m以内に近寄ってはならないと定められました」
「は……あ?」
さるお方、なんて言っても今の銀河帝国でロイエンタールに命令出来る人間など皇帝ラインハルト以外に有り得ないはずだ。その命令が『ヤンヤンの半径10mに近寄らないこと』とは……ヤンは軽い目眩を覚えて眉間に手をやった。
「つ、つまり、それは皇帝陛下のご命令でしょうか……?」
聞いても仕方ないが、ここはひとつ確かめておきたい。
「勅命ですね」
あっさりと認めてロイエンタールは両手をお手上げというように広げてみせる。
そう言われてみれば、ロイエンタールは先程からヤンの方へ近付いては来ない。正確に測ることは出来ないが、ロイエンタールの立っている位置からヤンの腰掛けたソファまではだいたい10mぐらいかも知れない……。
「私としては、オーディンに到着するまでにもっとあなたと交流したいと思っていたのですが……残念です」
そう作り笑いで嘯くロイエンタールをじっとりと上目遣いに見て、ヤンは短い溜め息を吐いた。
(そうじゃなくてオーディンに着くまでに私がヤン・ウェンリーだって暴きたかったんだろう!?)
「そうですか、それは私も残念です。ロイエンタール元帥にはいろいろと宇宙のことなど教えていただきたかったのに」
「宇宙のことですか?それなら私よりも宇宙船育ちのヤン・ウェンリー退役元帥の方がお詳しいでしょうね」
「………」
ロイエンタールの青と黒の瞳がヤンを見透かすように細められる。彼は既にヤンヤンがヤン・ウェンリーであることを微塵も疑っていないのだろう。
ヤンは不思議な感情を覚えていた。
ヤンヤンの姿をした自分が本当はヤン・ウェンリーであることは絶対に知られてはならない。
だが、ロイエンタールがヤンヤンの正体をヤン・ウェンリーであると見破ったことに微かな嬉しさを感じている。かくれんぼをする子供が見つからないように隠れながらも、見つかることを望んでいるように。
「……また、オーディンに着いたらロイエンタール元帥に教えていただきますわ」
黒い瞳を細め、小さく笑みを浮かべてヤンは告げた。
オーディンに着いた時にロイエンタールの証言でヤンは帝国軍に拘束されるかもしれない。
それでももう後戻りは出来ない場所まで来ているのだ。
「……そうですか、では私もその時を楽しみにしていますよ」
相変わらず何を考えているのか分からない笑みでロイエンタールは答えた。
「では、私はこれで失礼させていただきます」
淑女に対する礼儀で恭しく頭を下げるとロイエンタールはヤンに背を向けた。
「……ええ、ご機嫌よう、ロイエンタール元帥」
ヤンも出来る限り淑女らしくロイエンタールを見送ろうとした。
しかし、ドアノブに手を掛けたロイエンタールが何かを思い出したように動きを止めて背後を振り返った。
「大事なことを忘れていました」
二色の瞳を輝かせたロイエンタールの表情は、これまでヤンが見た彼の表情の中で最も意地が悪く、最も楽しそうなものであった。
「皇帝陛下からフロイラインへのメッセージがあったのです」
「は!?」
そんな大事なことをロイエンタールが忘れるはずもない。と言うことはわざとだ。
「フロイライン・ヤンヤンがオーディンに到着した暁には、皇帝陛下の住まわれる皇居へ宿泊することになっているので安心してほしい、とのことですよ」
「は?えっ……!?ええええっ!?」
一介のアイドルが銀河帝国皇帝の居住する皇居に宿泊するなど有り得る話ではない。
「うっ、嘘ですよね!?ロイエンタール元帥!!!」
ヤンはソファから飛び上がり、常にない俊敏な動作で扉の前に立つロイエンタールへと詰め寄った。
がっしりとロイエンタールのマントを掴んで半ば揺さぶるように訴える。
「嘘だと言ってください!元帥!」
必死の形相で訴えるヤンにロイエンタールはうっすらと笑って見せた。
「付け足しがひとつ。皇帝陛下は『結婚するまではフロイライン・ヤンヤンに無体な真似はしない』とおっしゃってましたよ?」
「け、ケッコン!?」
それは血の痕のことではないだろうね、ユリアン……。
ヤンは何処にいるのか分からない心のオアシスへと胸中で語りかけた。
「ちなみに私からはフロイラインの半径10m以内には近寄ってはいませんので、皇帝陛下に尋ねられた場合はちゃんと証言してくださいますね?」
そう言われてヤンは自分がロイエンタールに限りなく近付いていたことに気付いた。
しかも、これではまるでヤンがロイエンタールに迫っているようにも見えそうだ。
「うっ……わ、分かっています!」
赤くなった頬を誤魔化すように急いで離れようとするが、ヤンはうっかりいつもの調子でロイエンタールのマントに足を引っかけてしまった。
「わ!っとと……」
「おっと危ない」
再びロイエンタールへと傾いた身体を当然のようにロイエンタールが受け止める。
危なげのない仕草ではあったが、既に開きかけていたドアにロイエンタールの背中が触れ、自然とドアが外側へ開いていく。
「……これはこれは……お取り込み中だったようですね?」
「……シェーンコップ?」
先程まで室内にいた警備兵と並ぶように、見慣れた顔が憮然とした表情でこちらを見ていた。
「さすがはロイエンタール元帥閣下、お手が早いことで」
「……無礼な男だな。実際にそうだとして貴様に言われる筋合いも無かろう」
かくして息詰まる舌戦の火ぶたは切って落とされたが、ヤンはロイエンタールの腕の中にはまり込んだまま誤解だと伝えることも忘れ、ただ呆然と二人の攻防戦を見守るばかりだったのである。
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