ラインハルトは母クラリベルがどんな女性であったか憶えていない。
母が亡くなったのはラインハルトが三歳の頃だ。
まったく記憶にないと言うわけではないが、印象深い出来事や断片的な映像が記憶の底に降り積もる花弁のように存在するだけで、誰かに説明出来るような確かなものはなかった。
母が亡くなってからは姉のアンネローゼが母替わりとなってラインハルトの生活の面倒を見ていてくれたから、余計に母とアンネローゼの面影が重なってしまい、記憶にある『母』とのやり取りですら、本当はアンネローゼが相手だったのではないかと思うようになってきていた。
写真の一枚でもあれば、まだ記憶の整理が出来るのかもしれないが、ラインハルトの手元には母クラリベルの写真は存在しない。
母の写真は、父セバスティアンがすべて燃やしてしまったのだ。
ラインハルトがそれを知ったのは、父が酒や賭け事に溺れて私財を失い、住んでいた屋敷を借金の形に取られて下町に引っ越した後のことだった。
父親に理由を問い質しても写真が戻ってくるわけでもなければ、元の屋敷に戻れるわけでもない。
アルコールに溺れ、まともな仕事にも就かない父親とは、言葉を交わすことすらラインハルトには苦痛であったから、取り立てて写真のことを訊く気にもなれなかった。
母が亡くなった時にはアンネローゼですら八歳。
ラインハルトに比べれば記憶はしっかりしているだろうと思うが、目の前で車に轢かれて死んだ母親のことをアンネローゼに訊ねることは憚られた。
だから、アンネローゼが時折思い出したように話してくれる母の思い出はラインハルトにとって宝石のような宝物だった。
新しくできた隣家の友人を誘って郊外の野原に遊びに出掛けたラインハルトが友人を伴って家に帰ると、質素だがよく手入れされた庭先まで甘く香ばしい香りが漂っていた。
それと共に天使のように軽やかな歌声が微かに漏れ聞こえる。
「おかえりなさいラインハルト、それにジーク」
玄関のドアを開けると、金の髪をきっちりと編んだ美しい少女が微笑みを湛えて二人の少年を出迎えてくれた。
「今日は昔お母様が教えてくださったお菓子を作ってみたのよ?二人とも手を洗っていらっしゃい」
「行こう、キルヒアイス」
素直に頷いた少年二人は瞳を交わして手洗い場に向かう。
戻った二人にアンネローゼが振る舞ったのは秋の野菜と果実のタルトだった。
「ご近所さんにいろいろといただいたのよ。葡萄に林檎に栗にカボチャ……ほらラインハルト、こぼさないのよ?野菜もちゃんと食べてね。ジークを見習いなさいな」
父親は近所づきあいなどまともにする気はないが、アンネローゼとラインハルトの姉弟は周囲に対しての礼節を軽んじることはなかった。
勿論、周囲の人々が自分たちの境遇を知っていて、いろいろと噂をしていることは知っていたが、事実である以上なかったことに出来るものではない。
そんな貴族らしからぬ謙虚な態度に加えて、二人の外見が類い希な美しさであることも周囲に好印象を与えていた。
おかげで収入のほとんどない状態であっても、季節ごとのお裾分けには事欠かない。
アンネローゼを自宅に招き、目が悪いので編み物を手伝ってほしいと言っては編み上がったセーターなどを持って帰らせる老婦人などもいる。
「あ、そうだラインハルト、あれを持ってこないの?」
小皿に取り分けられたタルトを紅茶と共にすっかり平らげてから、キルヒアイスは思い出したようにラインハルトに話しかけた。
「あ、そうだった。あのままじゃ萎れてしまう」
はっとした表情でラインハルトが立ち上がり、キルヒアイスを伴って再び玄関を出て行き、残されたアンネローゼは不思議そうな表情で二人を待った。
ティーカップに注いだ琥珀色の紅茶の香りを楽しんでいるうちに二人は戻ってきた。
「……あら、コスモスね」
両手で抱えるほどのコスモスを抱いてラインハルトがアンネローゼに歩み寄ってくる。
「その……綺麗だったから、姉さんにプレゼントしようってキルヒアイスと……」
ちらりとキルヒアイスに視線を向けるラインハルトの目元は微かに赤い。
相手が姉とはいえ、女性に花をプレゼントするなんて生まれてラインハルトにとっては初めてのことだった。おそらく言い出したのはキルヒアイスの方で、ラインハルトよりはいくらかそういった経験があるのだろう。
「ありがとう、ラインハルト。それにジークも……」
そういうアンネローゼも弟と弟のようなキルヒアイスからではあるが、男性から花をもらったのは母が亡くなる前の誕生日以来だった。
その時、アンネローゼに花束を渡してくれたのは、今とは別人のように優しい父だった。
「その、今はこんな野原に咲いた花しかプレゼントできないけれど、いつかはきっと……」
「……ねえ、ラインハルトは知っているかしら?」
コスモスを渡しながら、ばつが悪そうに告げるラインハルトをアンネローゼは微笑んで遮った。
受け取った色とりどりの花に頬を寄せて抱き締め椅子から立ち上がると、ラインハルトとキルヒアイスを傍らに招き、二人の耳許で囁く。
「コスモスはね……お母様の一番お好きな花だったのよ」
「え……っ」
「そうなんですか?」
「ええ……そして私も一番好きよ」
驚く二人の少年の頬に軽く唇を寄せると、二人の頬は林檎のように赤くなった。
「次は私もコスモスの咲いている野原へ一緒に連れて行ってね?」
アンネローゼの言葉に二人は目を見交わして大きく頷いた。
「ヤンヤン☆通信はまだ届かないのか!?」
超高速通信のモニタの前に陣取って、苛立ちを抑えきれないように眉根を寄せてコンソールを指先で叩いている麗人は新銀河帝国皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムその人であった。
ヤンヤン☆通信は本来、自由惑星同盟領とフェザーンのみでしか手に入らないファンクラブ会員用の冊子であるが、儲かる要素は見逃さないのがフェザーン商人の誇りである。
当然、ヤンヤンの隠れファンが大量発生している銀河帝国にもリアルタイムで流出していた。
というわけで皇帝ラインハルトもヤンヤン☆通信の発行日には執務を早めに切り上げて、超高速通信のモニタの前でヤンヤン通信の海賊版である『ヤンヤン☆通信FTL』(年会費1万帝国マルク也)の到着を今か今かと待っているのである。
「来た!来た!来たぁ!!!」
モニタに齧り付く勢いで到着したデータを開封する。
そのラインハルトの皇帝としての威厳など欠片もない行動と頬が緩みっぱなしの歓喜の表情は、とても帝国臣民には見せられない。
背後で警備するキスリングもラインハルトの歓びは我が歓びと心に言い聞かせつつ、胸中で涙していた。
「……皇帝陛下?いかがされましたか?」
常であれば、喜々として次から次へとモニタの中でページを読み進めるラインハルトであるが、どうしたことか最初のページを凝視したまま微動だにしない。
一体、何が皇帝をそこまで驚かせたのか。
まさか、いつぞやの恋人発覚騒動のようにヤンヤンに何かが起きたとでも言うのか?
キスリングは一向に動かないラインハルトが心配になり、不躾だとは思ったがそっと背後からモニタを覗き込んだ。
「……陛下?」
キスリングの目にはラインハルトがそこまで固まるような情報は飛び込んでこなかった。
モニタに映し出されているのは今月号のヤンヤン☆通信の表紙である。
抜けるような青い空と緑豊かな草原というコントラストも鮮やかな風景の中で、色とりどりの小さな花に囲まれてあどけない表情で眠っているのは、皇帝陛下の想い人である新世紀アイドル☆ヤンヤンだ。
その時、それまで時が静止したかのようにモニタを凝視していたラインハルトの背から余分な力が抜けたのがキスリングには感じ取れた。
同時にラインハルトの口許から小さな笑みが漏れる。
「キスリング、この花を知っているか?」
モニタを指さしながら話しかけてくるラインハルトに、姿勢を正してキスリングは答えた。
「は、コスモスではないかと思いますが」
キスリングの答えを聞いて、何故かラインハルトは神妙な表情を浮かべた。
「……そうだな、やはりお前にもそう見えるか」
「……違うのですか?」
「いや、間違いないだろう」
ラインハルトの言いたいことがキスリングには理解できなかったが、やがてラインハルトが穏やかな微笑みを浮かべてモニタに視線を戻したので、特に気にする必要もないように感じた。
ラインハルトはしばらくの間コスモスに囲まれて眠るヤンヤンを見つめていたが、そのうち、いつものようにモニタに映し出されたヤンヤン☆通信のページを熱心に繰り始める。
あるページで再びラインハルトが食い入るようにモニタを見つめ、動きを止めた。
そして瞳を輝かせて勢いよく立ち上がる。
「キスリング!」
「は、はい!陛下!」
「余は決めたぞ!」
「は、何をでしょう?」
「余は皇宮にコスモス畑を作るぞ!」
「こ、コスモス畑ですか?」
フリードリヒ四世は随分と薔薇に傾倒していたらしく、金と手間を注ぎ込んだ薔薇園を造っていた。
新銀河帝国皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムが望めば花園だろうと女の園だろうと造るのは簡単だろうが、いくらなんでも皇宮にコスモス畑は貧乏ったらしい……と思っても口には出せないキスリングであった。
すっかその気になっているラインハルトを止めることも出来ず、キスリングは再びソファに腰を降ろして『ヤンヤン☆通信FTL』を読み耽る主君の背中を見守り続けた。
後日、皇帝の勅命を受けてコスモス畑に植え付けるコスモスの品種を調べているヒルデガルド・フォン・マリーンドルフに聞いたところによると、『今月のヤンヤン』のコーナーにヤンヤンの一番好きな花はコスモスだと書かれていたそうである。
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